(左)唐王朝の開元通寳(パブリック・ドメイン)、(右)額面77000銭の交子(パブリック・ドメイン)

 中国の北宋時代、中国西南部の「益州」で世界初の紙幣「交子(こうし)」が誕生しました。歴史研究により、「交子」は四川省成都市一帯で生まれたことが明らかになりましたが、具体的な発祥の地はまだ謎のままで、国内外の学者の間で議論が絶えなかったのです。
 成都の好奇心旺盛な紙幣コレクターと学者たちで組まれたグループは、調査を重ねた結果、成都市にある「中鉄二院工程集団(以下「中鉄二院」)」が、「交子」を製造していた場所であることを発見しました。しかし、1952年に建造された「中鉄二院」は、北宋時代において、なんと、寺院でした。
 紙幣を製造する工場は、なぜ仏法を修行する場所「寺院」を選んだのでしょうか?

「交子」の起源は長い間謎のまま

 専門家の研究によると、最初に登場した「交子」は民間流通のため、「私交子」とも呼ばれます。西南財経大学の劉方健(りゅう・ほうけん)教授によると、北宋時代の初期、成都の商業はとても発達しており、通貨がひっ迫していましたが、鉄によって作られた貨幣「鉄貨(てつか)」の流通はスムーズではありませんでした。そのため、当地の裕福な16世帯が組合を作り、鉄貨の代わりとなる楮(カジの木)の樹皮で作られた券を個人的に印刷し始めました。この券は、後に「交子」と呼ばれるようになりました。地方政府は当初、この「新通貨」を禁止したいと考えていましたが、経済流通におけるこの「新通貨」の役割は大きいことに気づき、政府がその印刷を認め、さらにそのあと交子の印刷を官業として管理し、「官交子」を誕生させました。
 しかし、「私交子」も「官交子」も、この二種類の「交子」の発祥の地はいまだに発見されていないのです。そこで、成都の一部の専門学者と研究機関は、「交子」発祥の地の謎をできるだけ早く解明したいと考え、組織的な調査と発掘活動「交子遡源活動」を開始しました。

「交子」の起源の考証

 「交子」は900年以上前に誕生したもので、具体的な実物の研究は出来ず、文献から調べるしかありません。過去の研究者たちは、成都の東にある「椒子街(現在の「均隆街」)」が、当時政府が正式に「交子」を印刷した場所だと考えていました。紀元前311年から紀元1949年までの成都の歴史を記録した著書『成都城坊古跡考』によると、「椒子街」は「交子街」とも呼ばれているのは、同じ発音だったからだけでなく、宋の時代にここに「交子務」が設けられたからだそうです。
 しかし、地元の通貨コレクターたちはこの主張に異議を唱えています。なぜなら、『成都金融志』によれば、実は北宋時代の益州の「交子屋」が四川地方最初の貨幣金融機関である一方、「交子務」が国によって認可された最初の紙幣発行機関だったからです。明らかに「紙幣発行機関が印刷所だ」と判断する根拠がありません。つまり、「椒子街」が「交子」発祥の地であるという直接的な証拠は存在しません。
 「交子遡源活動」の参加者である詹星(せん・せい)さんは、歴史典籍を読みながら「交子」発祥の地を探し始めました。彼は図書館で、元代の歴史研究家・費著の著書『全蜀芸文志』を見つけ、その中の「交子務」について言及した一節を見つけました。
 『全蜀芸文志』によれば、紀元1078年、朝廷は「交子務」を増設し、貨幣鋳造のために書記、印刷工、彫刻工、鋳物師、雑役など200人以上の人員を採用し、分業ごとに異なる給与を設定しました。史料には、当初は「交子務官」が貨幣用紙の納品を担当していましたが、後に監督上の不正を防ぐために、新たな職を設けて納品を担当させたということも記されています。そして紀元1163年、朝廷は交子務に「特置官」を派遣し、交子務を成都の西にある「浄衆寺」への移転を監督させました。①
 これは、政府により発行された「交子」が、成都の西にある「浄衆寺」で印刷されたことを示しています。
 ですが、900年以上も経った今、成都には「浄衆寺」のようなものは存在しません。どうやって探せばいいのでしょうか?そこで、四川省南充市の学者の協力を得て、査証はさらに一歩進みました。「浄衆寺」は後漢の桓帝の延熹②時代に建てられ、六朝時代③には「安浦寺」、唐の時代には「浄衆寺」、宋の時代には「浄因寺」、元末明初には「万仏寺」と改名されたことが分かりました。明代の末に、張献忠④が四川に入った後、寺は戦乱で破壊されましたが、清の康熙初期に再建され、改名せず「万仏寺」と呼ばれていました。その場所は、成都の西の金花橋の辺りにありました。
 しかし、今の成都には「万仏寺」という名前の場所もなく、どこにあるのかも分からず、探索活動がまた苦境に落ちてしまいました。迷ったとき、成都市金牛区文化管理所の元所長が情報を提供しました。「万仏寺」は西門外府河の近く、「通錦橋」の近くにあり、1950年代に破壊され、いくつかの精緻な文物が四川大学博物館に保管されており、現在の「中鉄二院」は万仏寺の跡地だそうです。

「万仏寺」の記憶

 もう一人の貨幣コレクターの傅先慶(ふ・せんけい)さんは、万仏寺の隣で育ちました。傅さんは思い出話を語りました。
 「私の家は万仏寺の隣、通錦橋から遠くないところにありました。古木がそびえ立つ寺院は、小さな川に囲まれており、小川の上流には高い水車が設置されており、寺院はその水車を使って用水を調達していました。寺院の近くには、製紙原料を作るために専用の水力臼もありました。私は子供の頃、寺院の前にある土地廟によく行き、老僧たちと遊んだりおしゃべりしたりしました。1947年、ここに疎開していた『樹徳中学』は『成都理学院』として再建され、1949年以後には四川大学に統合されました。1950年代、『中鉄二局』と『中鉄二院』が通錦橋と馬家園一帯に移転してきて、万仏寺が占用されました」
 「交子遡源活動」の参加者でもある傅さんは、万仏寺の記憶を頼りに、当時の万仏寺周辺の建物の地図を作成してみました。貨幣研究の専門家から提供された清の光緒五年に製図された『成都城防図』と重ねて、マークされた万仏寺と比較したところ、万仏寺の位置と完全に一致していることが判明しました。
 しかし、万仏寺はその後都市建設などの理由で取り壊されてしまいました。劉方健教授によると、1950年代に鉄道建設のため、万仏寺の敷地は中鉄二局の設計院に徴用され、寺院も完全に取り壊されました。それから半世紀が経ち、今では賑やかな中心市街地となっています。そのせいで、現在の成都の地図から万仏寺の痕跡を見つけることは困難です。それでも、「官交子」の発祥の地は、現在成都の中鉄二院の所在地であることが確認できました。
 また、研究に参加した専門家たちによると、「私交子」は「官交子」よりも早く誕生しましたが、「官交子」は国の法定通貨であり、通貨としての機能を完全に備えていました。初期の「私交子」は一部の通貨機能しか持たず、信用通貨ではありませんでした。『全蜀芸文志』の中でも「私交子」の欠点が明記されていました。
 「私交子」は多大な貢献をし、紙幣の源となっていますが、「私交子」の実物や「私交子」が印刷された場所を記録する文献が不足しているため、それを実証することは出来ませんでした。一方「官交子」の印刷地に関する記録は詳しく、「世界初の紙幣」と呼んでも差し支えありません。

 では、なぜ紙幣の製造は製紙工場ではなく、寺院で行われるのでしょうか?
 四川大学の歴史学の元教授・陳恩元(ちん・おんげん)さんによると、「交子」を作るのに最も重要なのは「紙」でした。その製造方法は、梶の木の樹皮を石灰水に数日間浸して、柔らかくして漂白させてから、それを水に浸してプレスして紙パルプにする方法でした。このような製紙には、大量の引水と排水が必要でありながら、紙を十分に乾燥させる場所も必要であるため、製紙工場は自然の水が十分に供給されながら、広い空間のある場所に建設される必要があります。そこで、万仏寺一帯は、緑豊かな森と小川に囲まれ、引水も排水も大変便利で、まさに製紙の条件をぴったりと合致していましたので、紙幣が作られる最初の場所となりました。


①元豐元年増一員;掌典十人,貼書六十九人,印匠八十一人,雕匠六人,鑄匠二人,雜役一十二人,廩給各有差。所用之紙,初自置塲,以交子務官兼領,後慮其有弊,以他官董其事。隆興元年,始特置官一員莅之,移寓城西净衆寺。(『全蜀藝文志・卷五十七<楮幣譜>』より)
②延熹(えんき)は、後漢の桓帝劉志の治世に行われた6番目の元号。158年 – 167年。
③六朝(りくちょう)は、中国史上で建康(建業、現在の南京市)に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。この時代(222年 – 589年)を六朝時代(りくちょうじだい)とも呼ぶ。
④張献忠(ちょう・けんちゅう、1606年9月18日 – 1647年1月2日)は、明末の農民反乱の指導者。

(翻訳・宴楽)