諸葛亮が魏軍を破る(北京・頤和園の回廊絵画)(flickr/shizhao CC BY-SA 2.0

 何世代もの人々を三国時代の中国へ誘った小説『三国志演義』。混沌とした戦いが続くあの時代の、数え切れない程の生死を賭した熱い物語を伝えてきました。魏・蜀・呉の三国が、自国の発展や防御ために同盟を組んだり、攻撃し合ったりして繰り広げる「壮大な歴史ドラマ」は、今も多くの人々を魅了しています。
 当時の情勢から、呉と蜀は強大な魏と戦うために団結せざるを得なかったのですが、呉蜀両国の間にも、それぞれの利益のために多くの企みや戦いがありました。活躍していた英雄たちが次々と姿を消した後、蜀の最後の局面を必死に支えようとしたのは「諸葛孔明」でした。

 時は紀元222年。呉は夷陵の戦いで大勝利を収めましたが、すぐに蜀を追撃するのをやめました。呉と蜀が共倒れになって、北にある強国の魏が漁夫の利を得る事を恐れたからです。一方、蜀の孔明も、呉との友好関係を作り直そうと決意しました。紀元229年、孔明は鄧芝を使節として呉に派遣し同盟の締結を願いました。呉蜀両国は魏に対抗するため、再び同盟を結び、同時に孔明は、呉の皇帝・孫権と「魏を滅ぼした後、函谷関②を境界として、天下を分かち合うこと」の合意を得ました。
 数年前の同盟を結んでいた頃に戻ったかのように、呉蜀両国は友好を深めました。しかし、いわゆる「同盟」は、一時的な妥協策に過ぎないと、誰もが分かっていました。呉蜀両国が同盟を結んだ理由は、魏があまりにも強大だったからで、魏を滅ぼすことさえできれば、呉蜀両国は再び戦争になると思っていました。
 同盟を申し入れた孔明でしたが、夷陵の戦いで呉の火計により陣営を焼き払われ、荊州を奪われた屈辱を決して忘れませんでした。呉と蜀は、同盟締結の際、共に魏に対して「北伐」を行い「協力し合う」と合意しましたが、実際には両国とも安易に動かない上、協力どころか、互いに用心深く気を付けていました。孔明は生涯、何度も北伐を行いましたが、その都度、荊州陥落の二の舞を避けるため、信頼する将軍たちを呉と蜀の国境に派遣し、防備を整えさせました。

 紀元226年、北伐を行おうとした孔明は、もともと永安に駐屯していた李厳を「江州」に就かせ、陳到を「永安」の守備に就かせました。蜀の最精鋭・白毦兵(はくじへい)を陳到に任せました。
 「永安(現在の重慶市奉節県一帯)」は、白帝城(はくていじょう)の所在地であり、呉と蜀の国境にある要地です。そして陳到は、劉備が厚く信頼していた将軍でした。
 孔明はさらに、呉に仕える兄の諸葛瑾に手紙を書き、永安と江州の両方に重兵力を配置していることを明記しました。これは、諸葛瑾を通して「北伐に乗じて後方の襲撃を繰り返そうとしないように」と、孫権に警告するためでした。

 孔明の死後数十年の間に、姜維(きょうい)も何度か北伐を行いましたが、孔明の託しに従い、北伐に国力の全てを注ぎ込むことはなく、常に呉の攻撃を防備するために1万人の精兵を永安に残し、たとえ蜀が滅びても戻って救援しないよう命令していました。実際、孔明の死後、呉は両国の国境で小さな動きを見せましたが、既に蜀がそれに備えていたため、呉は頓挫するしかありませんでした。

 紀元263年、魏・鄧艾の軍勢が陰平を潜り抜けて成都まで到着しました。蜀の二代目皇帝・劉禅は降伏し、蜀漢はこれで滅亡しました。魏に降伏した後、劉禅は永安を守る羅憲(らけん)に手紙を送り、永安城外に駐屯する軍を率いて魏に降伏する準備をするよう命じました。

鄧艾は陰平道より無人の地を行く事七百余里に渡って行軍した(パブリック・ドメイン)

 紀元264年、呉の三代目皇帝・孫休は「蜀を救う」という名目で軍を派遣し、蜀の領地だった巴東郡に攻撃を仕掛けました。しかし、羅憲は永安城でわずか数千人の蜀軍を率いて、数万人軍勢の呉軍を食い止めました。
 魏・司馬昭は呉のこの動きを知ると、直ちに荊州の刺史である胡烈(これつ)に、2万の兵を率いて呉の西陵郡を攻撃させました。この時、羅憲は既に半年もの間、呉軍の攻撃を食い止めていました。未だに永安を攻略できない孫休は、西陵郡も魏軍に攻撃されている情勢を鑑みて、撤退を命じざるを得ませんでした。
 永安の危機が解かれた後、司馬昭は羅憲に対して褒賞を与えました。羅憲は、姜維も魏に降伏したことを知り「大勢は既に決し、もはや抗う術がない」とわかり、司馬昭からの褒賞を受け取り、魏に降伏しました。司馬昭は、降伏した蜀の将軍に対する褒賞が特別だと示すために、さらに羅憲を「万年亭侯」に封じ、引き続き永安を守ることを命じました。

 司馬炎が魏の最後の元帝から禅譲③を受け、晋(しん)を建国して数年後の紀元268年3月、晋の武帝・司馬炎は羅憲に、蜀漢の旧臣とその子女を推挙するよう求めたため、羅憲は多くの人を推薦しました。これらの推薦された人たちはすぐに司馬炎に重用され、みな当時の有名人になりました。その中には、後に『三国志』を編纂したことで有名になった「陳寿(ちんじゅ)」も含まれていました。

 もし、陳寿が重用されていなければ『三国志』が世に出ることがなく、現代を生きる私たちは、かの三国時代を語ることができなかったかもしれません。この意味でも、孔明が心にかけていた要地「永安」は、蜀を守っただけでなく、結果的に三国時代の歴史そのものを守ったのではないでしょうか?
 
註:
①夷陵の戦い(いりょうのたたかい)とは、中国三国時代の紀元222年に行われた、三峡における蜀漢皇帝・劉備が指揮を執る蜀漢軍と、呉の大都督・陸遜が指揮を執る呉軍との間の戦い。
②函谷関(かんこくかん)は、中国河南省にあった関所(関塞)。多くの戦闘が行われ、さまざまな故事の舞台としても知られている。
③禅譲(ぜんじょう)とは、君主(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ること。

(翻訳・清水小桐)