北京の郭守敬記念館にある郭守敬の像(Shizhao, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

 西暦が普及される前に、ほぼすべての古代中国人は家に「暦(こよみ)」を持っていました。しかし、「暦」は一般人の知恵を集めた「集合知」から生まれたものではなく、古代中国の最高級の天文学者たちが研鑽を重ねに重ねた成果によるものなのです。『宋史・律暦篇』は最初から、「古くから、天下を治める帝王は、律暦を先にしていた①  」と言うように、律暦は国家の管理では、極めて重要だったことが分かります。

 古代中国は農業社会の時期が長かったせいで、「暦」が農民たちの使う「農民暦」と誤解されていましたが、歴代の皇帝たちは暦の正確性を求め続けてきたのです。それは、各王朝に大事にされていた暦の校正は、それほどの価値と重要性があるからです。暦は、年の交替、月の朔望、四季と節気を示しています。暦の中には、天空における太陽、月、星の位置と運行軌跡への観測もあれば、天体と星宿との距離と角度への記録があり、さらには日食、月食、彗星の到来への計算までがあります。さまざまな「天道」が凝縮される一冊の暦を、皇帝たちは天地に従い万物万民を化育する導きとしてきました。「天人合一(てんじんごういつ)」の思想は、ここでも具現化されているのです。

 明王朝期の数多な故事が記された古書『天府広記』の「欽天監」の一節によると、古くから暦を治める名家は多くいましたが、正確な推論し演繹した者は限られています。『太初暦』を編暦した前漢の落下閎(らっかこう)氏と、『大衍暦』を編暦した唐の一行(いちぎょう)大師、そして『授時暦』を編暦した郭守敬(かくしゅけい)氏の三人は、精確な推論と演繹を行ったと言えます②。郭守敬氏らが編暦した『授時暦』は、古い暦法を押しのけ、日の影「晷」を実際に測定し、正確な推測を行ったため、暦法を革新し、漢王朝以来の暦法の中の最高峰になるだけでなく、後世の暦法の源ともなりました。

 『授時暦』の誕生

 1276年、元王朝は安定な治世を迎えます。世祖のクビライは暦法の改修を命令しました。勅命を承ったのは、暦法の理に詳しい許衡氏、実学の道を守る楊恭懿氏などなど、算数や学問の研究を行う優秀な研究者ばかりでした。全国各地の日官(にっかん)を統率し、国境内の実測と計算を執行し、郭守敬氏はその成果をまとめておきます。研究者たちは、実地の測定と計算を昼夜問わずに行うほか、40部余りの歴代の暦書を遍く参考し、新しい計算方法を創り上げたおかげで、極めて精密な推算ができました。1280年、『授時暦』は完成し、翌年の冬至の日に発行しました。

 『授時暦』では、天文測量学と数学の堅実な礎があるほか、精良な計測機器も大いに力を発揮しましたので、歴代の暦法の推算方法を革新して、精確度もかつてないほど高くなりました。例えば、『授時暦』の編纂中、南宋期の『統天暦(とうてんれき)』が計測した太陽年の長さはどんどん短くなってきていることが見つかりました。ごくわずかな誤差でも、年月を重ねると誤差が大きくなり、暦の正確度に影響を及ぼしかねません。郭守敬氏は、計算を重ね、一太陽年の長さを「365.2425日」と算出しました。これは1582年に発行されたグレゴリオ暦より約300年も早く算出したのです。

 『授時暦』は、一千年近くに使われていた「上元積年法③」の計算方法を採用せず、日の影「晷」を実際に測定していました。これは過去にあった膨大の情報を計算する必要をなくし、誤差を減らすことができ、計算の正確度を上げました。『元史』は『授時暦』を「春秋から冬至まで、往々として合致している④」と評価しました。『天府広記』は『授時暦』を「古い歴史を遡ってみても、春秋時代の献公からの二千百六十年余りの全ての暦に合致している。その精密さは卑下にできない⑤」と賛嘆しました。

 発行してすぐに多く賞賛された『授時暦』は、後世にも広く評価され、長く採用されました。1281年の発行から清の順治帝の時代までの360年もの間、『授時暦』は基本の暦法として採用され続けました。さらに、元明王朝期、『授時暦』は東アジア文化圏にも広く影響を与えました。

 天体観測の面においても、『授時暦』は新しい計算方法を用いて、日ごとの日長の変化、月の運動の遅速、赤道と黄道の距離、傾斜角の度数、白道(月の軌道)と黄道の交点の月ごとの位置などに対する計算はすべて、古い暦法より正確になりました。これらの正確な計算は、中国史上最も優秀な暦・『授時暦』の誕生に功を奏したのです。

 郭守敬氏の貢献

 精確な天体観測は、優秀な観測機器なしにはできません。そこは郭守敬氏の抜きん出た才能の見せ所でした。郭守敬氏が改良し製作した観測機器は多種多様であり、多岐にわたる用途に活躍していました。

 1279年、当時の国家天文台副台長に相当する官職「同知太史院事」として任命された郭守敬氏は、元の世祖に観測機器の改良図解の一式を上奏し、その使用方法と原理を悉く説明しました。朝から晩までの説明会でも、世祖は全く聞き飽きませんでした。その興味に乗じ、郭守敬氏は天文台の建設と、全国的に天文測定の実施を世祖に進言しました。世祖は進言を認め、首都の大都に大きな天文台を建設し、14名の監候官を派遣し、全国各地に27の測定所を設置しました。これで、元王朝の天体観測は、かつてないほどの広さと深さまで発展でき、「どんな些細な情報でも綿密な考証ができる」と言われるほどの正確性がありました。

 現存の天体観測機器に対しても、郭守敬氏はできるだけ誤りを正すか、作り直すようにしました。以来の80年間、元王朝のすべての司天官(天文方)は郭守敬氏の発明した天体観測機器をそのまま使用しても、誤差が発生することがありませんでした。

1276年、郭守敬は河南省登封にある周公観星台を再建し、今の登封観星台となる。(tak.wing, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)

 郭守敬氏が発明・改良した測定機器はほかにも数多くありました。例えば、天体観測をより便利にできる「簡儀」と「仰儀」。はっきりと日影の長さを測定できる、圭表から改良して作製した「高表」とその補助器具「景符」。月への観察に活躍する「窺幾」。天体の位置を正しく記録するため、北斗七星と北十字星への観測に役立つ「候極儀」。日食と月食の時刻を検証する「日月食儀」。時刻を正しくするために恒星の位置を観測する「星晷定時儀」…。二十近くの発明には、外出して実地測定に便利な観測機器もあれば、決められた地点に正確で間違いのない観測機器もありました。「極めて精妙で、前人未到の大変優れた見識を見せた⑦」と絶賛されたこれらの観測機器は、元王朝の天体観測を更に高度に発展させました。ともに仕事をしてきた許衡氏も、郭守敬氏を千年に一人の天才だと絶賛していたのでした。

 民を治める天子の道の順逆を示す太陽、月、星の動き、日食、月食、彗星と流星の発生。万民の一年中の活動の準拠を決める四季と陰陽の変化、日の出入り、月の朔望。私たちの生活の基準ともいえるそのすべての天文現象を記録、予測するのは、たった一冊の「暦」なのです。古代中国の「暦」の最高峰である『授時暦』は、元・明・清の三つの王朝の皇帝にとって最優先となる参考基準であり、有力な判断材料でした。

 1964年、紫金山天文台が発見した小惑星の1つが(2012)「郭守敬(Guo Shou-Jing)」と命名されました。星のように多くの天文学の成果を『授時暦』に取りまとめた郭守敬氏も、広大なる宇宙の一粒の星にその名前を刻みました。稀有な天才でありながら、ひたすら実践と努力を積み重ねた郭守敬氏は、まるで天命を承り、天道の秘密を人間に残し、また上天に帰っていった天の使者なのではないでしょうか。

 註:
 ①中国語原文:古者,帝王之治天下,以律曆為先。(『宋史・志第二十一・律歷一』より)
 ②中国語原文:古今治曆之家多矣。其最精者,漢洛下閎太初曆以鍾曆,唐一行大衍曆以蓍策,元郭守敬授時曆以晷景,皆稱推驗之精,而晷景為近。(『天府廣記・卷二十九・欽天監』より)
 ③上元積年法(もしくは積年日法)とは、暦元を遠い過去に置いて計算する方法のことを指す。
 ④中国語原文:上推春秋以來冬至,往往皆合。(『元史・巻五十二』より)
 ⑤中国語原文:而又上考往古,自春秋獻公以來二千一百六十餘年,類皆吻合,不可謂不密矣。(『天府廣記・卷二十九・欽天監』より)
 ⑥中国語原文:於余分纖微皆有可考。(『元史・卷四十八』より)
 ⑦中国語原文:皆臻於精妙,卓見絕識,蓋有古人所未及者。(『元史・卷四十八』より)

(文・允嘉徽/翻訳・常夏)