貞観16年、太宗と官吏たちは、朝堂でいつも話し合いを繰り返していた。その話の内容を記録する大臣がいた。その大臣は、「書きすぎれば、誰かの心を傷つけるかもしれない、言い過ぎても誰かの気分を損ねるかもしれない」と見解を記した。思慮深くなり過ぎるのも、言い過ぎるのも、心身に負担が生じる。古代の君主は皆、口数が少ないことを高尚な道徳とみなしている。たとえば老子によれば、「大いに論じても、口は重く」、荘子は「道に至れば言葉少なし」と言っている。

 太宗はその記録を読んだ後すぐに反省し、「深く考えなければ、しっかりと治められず、ちゃんと話をしなければ考えを伝えられない。しかし、自分は最近大臣たちと頻繁に議論してきたが、他の者たちを軽視する傲慢な態度を生じさせてはいなかったかと危惧する。」たとえ大臣と話をする時でも、太宗は依然として、自分の言葉遣いに驕り高ぶった考えが表れていないか、賢臣の政治補佐の仕事においての忠誠心を傷つけてはいないかと危惧した。

 人が生まれてから話ができるようになるまでは、数年間かかるだけだが、人と話をしたり考えを伝える上での方法やコツは、一生かけても学ぶ価値がありそうだ。古代ギリシャのソクラテスはかつて、「神は人間に2つの耳と2つの目を与えてくださった。しかし、口はなぜか1つだけである。なぜならば、よく人の話を聞き、物事をよく見て、話すのは少なめが良いという理由からだ」。東方の仏教にも「口を修めよ」という福徳の修養の教えがある。唐の時代の皇帝の太宗でさえ一国の君主として、このように自分の言葉や行いに注意深く、慎重なのだから、まして我々のような一般人がどうしても話さなければならないことなどないのではないだろうか?

(おわり)

参考資料:『貞觀政要』(『貞觀政要』は唐太宗の君臣対話が記録された政論史書。古今東西の指導者たちが必読し、唐太宗の国を治める理念と智慧が凝集されている。)

(作者・柳笛/翻訳・夜香木)