およそ三千年前、古代インドの商業都市ヴァイシャーリーに、徳が高く人々から深く尊崇された長者、ヴィマラ・キールティ(維摩詰=ゆいまきつ)が在家信者として暮らしていました。釈迦牟尼の弟子たちが彼と共に坐禅を組み、自らの悟りを語り合うとき、弟子たちはいつもヴィマラ・キールティの説く深遠な境地に圧倒され、感服するばかりでした。
 彼は神通力や天眼の妙義に通じ、坐禅や戒律の真髄を説き明かし、「空(くう)」の真理を巧みな言葉で表現しては、迷いの中にある弟子たちの蒙(もう)を啓き、真理へと導いていました。
 しかしある日、ヴィマラ・キールティは病に倒れます。釈迦牟尼は見舞いとして知恵を司る文殊師利(もんじゅしり)を遣わしました。文殊師利はその居室を訪れ、「高い境地に達したあなたが、なぜ病に倒れることなどあるのでしょうか」と尋ねました。
 ヴィマラ・キールティはこう答えます。
 「衆生が煩悩や執着によって苦難の病を患っているからこそ、私もまた病んでいるのです。いつの日か人々がその苦難から解脱したとき、私の病も癒えることでしょう」
 この慈悲に満ちた言葉に、文殊師利は深く心を打たれました。さらにヴィマラ・キールティは、「空」と「不二法門」の要義を語りかけます。対話が佳境に入り、文殊師利がさらなる高みの教えを求めようとしたその瞬間、ヴィマラ・キールティは一切の言葉を止め、深き沈黙を守りました。この「沈黙」こそが究極の仏理を語っていると文殊師利が悟ったその刹那、天からは美しい花の雨が降り注いだといいます。

『維摩演教図』(部分)、宋代・李公麟筆と伝わる(パブリック・ドメイン)

 この物語は『維摩経(ゆいまきょう)』に記されています。『維摩経』が中国へ伝わり漢訳されると、この問答は知識人たちの心を強く捉え、己を忘れて他者を救う大慈悲の心は、中華圏の伝統文化や思想の中へと深く浸透していきました。多くの絵師がこの維摩詰の姿を画布に留めようと筆を執るなか、中国絵画史に不滅の足跡を遺した名手・顧愷之(こ・がいし)が登場します。

 東晋の興寧二年(西暦364年)、若き顧愷之はまだ無名の画家に過ぎませんでした。当時、金陵(現在の江蘇省南京市)の瓦官寺(がかんじ)で大規模な建立工事が行われ、僧侶たちは各地で喜捨(寄付)を募っていました。しかし、名だたる高官たちでさえ、十万銭を超える寄付をする者はいませんでした。この事情を知った顧愷之は、自ら百万銭を調達しようと名乗りを上げ、僧にこう申し出ました。
 「堂内の壁一面を空けてください。そこに私が絵を描きましょう」
 それから顧愷之は一ヶ月の間、堂に籠もって一心不乱に筆を振るいました。

明代・唐寅筆『維摩説法図』。画中では、維摩居士が大きな岩の上に端座し、説法している。(画像出典:国立故宮博物院)

 顧愷之は常々、人物を描くには相手の思想や精神を深く理解してこそ真の姿を描き出せると信じていました。絵画で最も重んじるべきは、単なる外見の輪郭(形似)ではなく、内面の精神や気品が宿る「神似(しんじ)」であるという画論です。
 生き生きとした気韻を生み出すうえで最も決定的なのが、瞳を描き入れる一筆「点睛(てんせい)」でした。瞳を入れた瞬間に人物へ魂が宿るため、決して軽々しく筆を下ろしてはならず、一筆でも誤れば邪気が宿りかねないと考えていたのです。そのため、顧愷之は制作の最後に、時には長い思索の期間を置いてから瞳を描き入れるのを常としていました。
 このヴィマラ・キールティの肖像画は、まさにその真骨頂でした。『維摩経』の問答を熟知し、仏法の理を深く体得していた顧愷之には、確固たる勝算がありました。顧愷之は寺の僧を通じ、壁画を拝観する人々に対し「初日は十万銭、二日目は五万銭、三日目以降は任意の額を喜捨するように」とお触れを出させました。
 いよいよ顧愷之が最後に瞳を描き入れると、壁画の中のヴィマラ・キールティは慈愛に満ちた笑みをたたえ、まるで生を得て人々に仏法の智慧を語りかけているかのようでした。伝承によれば、その瞳からは神々しい光が放たれ、寺院一帯を照らしたと伝えられます。噂を聞きつけた群衆が我先にと押し寄せ、息をのむような傑作に心を奪われては競うように喜捨を捧げました。瓦官寺は瞬く間に百万銭を集め、顧愷之の名は一躍天下に轟くこととなったのです。この壁画『維摩詰像』は、のちに瓦官寺の「三絶」の一つと称され、当時の芸術界における奇跡として語り継がれました。

 歴史を振り返れば、至高の芸術作品の多くは信仰の殿堂において産声を上げています。例えば、完璧な人体比率と流れるような衣のひだで今なお人々を圧倒するギリシャ・パルテノン神殿の彫刻。例えば、ステンドグラスや壁画の間から柔らかな光が差し込み、聖なる光となって堂内を満たすヨーロッパの教会。例えば、悠久の歳月を超えて仏陀の荘厳な慈顔を今に留め、名もなき石工たちの純粋な祈りを伝える敦煌石窟の壮大な仏像群。
 古代の東西において、類まれなる芸術の才能は「神仏から授かった天賦の才」と信じられていました。芸術家たちは己の才能を神仏への感謝と賛美のために捧げ、私利私欲や名声のために費やすことは稀でした。敬虔で無私な祈りから生まれた作品だからこそ、移ろいやすい時代の潮流に呑まれることなく、いつの時代も永遠の輝きを放ち続けているのです。

(次回:古代中国は本当に女性を軽視していたのか?)

(翻訳・慎吾)