清・丁観鵬「洛神賦図」(一部、パブリック・ドメイン)(晋・顧愷之「洛神賦図」の摹本)

 「八斗の才」もしくは「才高八斗」という慣用句をご存知でしょうか。豊かな才能や学識を持つ人物を形容する時によく使われます。では、「八斗」の才とは一体どれほど高いのでしょうか?また、それは誰のことを指しているのでしょうか?
 これには非常に興味深いいわれがあります。

「八斗の才」の意味

 「斗」とは古代の計量の単位で、10升が1斗で、10斗が1石となります。中国では1斗=10升=2リットルとなりますが、日本では、明治時代に1升=約1.8039リットルと定められたので、1斗=約18.039リットルとなります。「八斗」は「多い」という意味の誇張表現です。
 「八斗の才」という言葉は、中国・南朝の詩人である謝霊運(しゃ・れいうん、385年 – 433年)が、三国の魏の詩人である曹植(そう・ち、192年 – 232年)を賞讃した時に使ったたとえです。
 謝霊運は著名な山水詩の作家です。政治上の失意から、山水に目を向けるようになり、多くの山水詩を書きました。謝霊運が書いた詩は文人たちに愛好され、彼の詩が世に出されるや、人々は競って写し取り、広く伝わりました。
 一方では、謝霊運の言行は常軌を逸しており、自分の才能を誇って他人を見下しました。彼はかつて酒を飲みながらため息をついてこう言いました。
 「世の中の才能をすべて合わせて一石とするならば、曹植氏一人で八斗を占める。一斗が自分で、古代から現在までの文人をすべて合わせて残りの一斗だ。」①謝霊運が言いたかったことは、この世の人の才能は彼の目に映らないが、曹植の傑出した文才だけが彼を心服させたということです。のちに、この言葉から抜粋された「才高八斗」という慣用句が広く伝わりました。

曹植の文才

 謝霊運は曹植を「才高八斗」と形容しました。これは謝霊運の心の中で曹植がとても崇高な存在であったことを示しています。では、謝霊運にこんなにも高く評価されるほど、いったい曹植の何が特別だったのでしょうか?
 曹植は曹操の五男で、幼い頃から非常に賢く、筆が立ち、詩文をとても愛好しました。言い伝えによれば、彼は10歳の時にはすでにすぐれた詩を書くことができました。しかもその言葉の豊かさと境地には奥深いものがあり、曹操は生前、曹植を非常に可愛がっていました。また、当時の人々も曹植の才能を稀有なものと見ていました。
 ある時、曹操は曹植の文章を読んで、「これはお前が書いたのか?」と驚いて聞いたといいます。曹植は慌てて跪いて「私は筆をもてばすぐに文章を書くことができます。もし父上が信じないのでしたら、その真偽を確かめていただいても構いません」と言いました。ちょうど銅雀台(どうじゃくだい)が完成した時なので、曹操は自分の息子たちに作文を書くように命じました。曹植はすぐに筆をとると、あの有名な『銅雀台の賦』を書きあげました。曹操はこれを見て曹植の文章力の高さを確信したようです。

七歩成詩(七歩歩く間に詩を作る)

 曹植は建安文学②を代表する人物の一人で大成者でもありました。晋の南北朝時代、彼は文学者の鑑として尊敬されていました。代表作には『洛神賦』、『白馬篇』、『七哀詩』などがあります。曹植の才能を示すものに、彼の「七歩成詩」の物語ほど最もよく知られているものはありません。

清・丁観鵬「洛神賦図」(一部、パブリック・ドメイン)(晋・顧愷之「洛神賦図」の摹本)

 『世説新語』の記載によれば、魏の文帝の曹丕(そう・ひ)は弟の曹植の才能に嫉妬し、七歩歩く間に詩を一首作るように命じ、作れなければ処刑すると言いました。しかも、その詩には厳格な要求がありました。詩のテーマは「兄弟の情」でなければならず、さらに詩全体に「兄弟」という二文字を使ってはならない、という条件が課せられたのです。
 しかし、曹植は七歩行かないうちに本当に詩を作りました。
 「豆を煮込んで濃厚な汁を作り、豆を濾して汁を作ります。豆がらは釜の下で燃えていて、豆は釜の中で泣いています。同じ一つの根から生まれたものなのに、どうして苛酷に責めるのでしょうか?」
 曹植は的確な比喩と哀れみを誘う言葉で、兄弟間で互いに傷つけあう悲しみを表現しました。この詩を聴き終えた曹丕は深く恥じ入り、曹植を処刑する考えを取り止めました。③
 この物語は後世の人によって多くの誤りがあると考えられていますが、この七歩の詩はとても有名になり、2000年近くの間ずっと語り伝えられています。曹植と彼の文才は、多くの文人を敬服させました。自らの才能を誇り衆人を眼中に置かない謝霊運でさえ、曹植を「八斗の才」と呼んだというのですから、曹植の文才が非凡なものであったことがさらに証明されました。

註:
①中国語原文:天下才共一石,曹子建(植)獨佔八斗,我得一斗,天下共分一斗。(『釈常談・卷中<八斗之才>』より)
②建安文学(けんあんぶんがく)は、中国後漢末期の建安年間(紀元196年~220年)、実質的な最高権力者となっていた曹氏一族の曹操を擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩・楽府を中心とする詩文学。
③中国語原文:文帝嘗令東阿王七步中作詩,不成者行大法。應聲便為詩曰:「煮豆持作羹,漉菽以為汁。萁在釜下然,豆在釜中泣。本自同根生,相煎何太急?」帝深有慚色。(『世説新語・文学』より)

(文・暁嵐/翻訳・夜香木)