浮世絵師、細田栄之によって描かれた楊貴妃(Chōbunsai Eishi, Public domain, via Wikimedia Commons)

 西施・王昭君・貂蝉と並び称せられる古代中国の四大美女の一人、傾城傾国(けいせいけいこく)の美女「楊貴妃」。本名は楊玉環(よう・ぎょくかん)、道号は太真、本籍は中国蒲州永楽県(現在の山西省永済市)です。彼女は中国だけでなく世界でも知られている絶世の美女です。2023年神韻芸術団巡回公演で、楊貴妃の歴史物語を演出した「玄宗と楊貴妃」の演目は、観客の涙を誘い、惜しみない拍手が送られました。
 楊貴妃の伝奇的な生涯は、数多くの文人や詩人をひらめかせ、彼女の伝説を語る作品を多く作り出しました。その中で最も代表的な作品は、唐の詩人白居易が書いた漢詩『長恨歌(ちょうごんか)』です。この840文字もある長編の漢詩は、楊貴妃と玄宗の初対面から、二人が片時も離れない生活、そして最後の別れまでのエピソードを細緻に描きました。特に玄宗が「安史の乱」で追い込まれた際に、やむを得ず嘆き悲しみながら楊貴妃を縊死(いし)させた場面を精緻に描写したので、多くの読者が涙を流しました。
 しかし、「楊貴妃の最期」について、いまだに多くの疑問が残されており、諸説まちまちなのです——

死亡説

 中国の正史と正典、例えば『旧唐書(くとうじょ)』『新唐書(しんとうじょ)』『資治通鑑(しじつがん)』及び唐王朝期に関する雑記や雑史『高力士伝』『(唐)国史補』『明皇雑録』『安禄山事迹』などには、「安史の乱」で玄宗は逃亡した途上、反乱の兵士たちに迫られ、楊貴妃に死を賜ったことが記載されました。『旧唐書』の記載によると、同行した左禁軍の将軍であった陳玄礼(ちん・げんれい)などは宰相である楊国忠(よう・こくちゅう)と息子を処刑した後、「後患の根を断つ」を理由に、楊貴妃に死を賜ることを固く求めました。やむ得なく玄宗は楊貴妃と決別し、遂に佛堂で縊死させる勅命を下しました①。『資治通鑑』の記載によると、楊貴妃を近くの仏堂に引き入れて縊死させるようにと、玄宗は高力士に命じました②。『国史補』の記載によると、高力士は仏堂の梨の木の下で楊貴妃を縊死させました③。
 他にいくつかの唐詩の記述から、楊貴妃が乱軍の中で死んだ可能性も窺えます。杜牧の『華清宮三十韻』④、温庭筠の『馬嵬駅』⑤、杜甫の『哀江頭』⑥などの作品では、楊貴妃が縊死させられたのではなく、馬嵬で乱兵に殺されたことを描写しました。

逃亡説

 しかし、白居易の『長恨歌』の中には、「馬嵬の坡下の泥土の中、玉顔を見ず、ただ空しく死せし処」、つまり、馬嵬で楊貴妃の遺体が見つからなかったことを書いていました。
 正史の記載によると、楊貴妃は馬嵬の郊外の道端で草々に埋められた時に、遺体には香り袋がついていました。「安史の乱」が平定された後に、玄宗皇帝が長安へ帰る時、密かに宦官(かんがん)を遣わして、楊貴妃をより体面に相応しいところに改葬させようとしました。その宦官が帰って報告をしました。この報告について、『旧唐書』では「遺体はすでに朽ち果て、ただ香り袋だけが残っていた」と記載されました。しかし、『新唐書』には「香り袋だけが残っていた」としか書いていなく、楊貴妃の遺体について触れなかったのです。
 『旧唐書』は戦乱が相次ぐ後晋(こうしん)の滅亡前に、僅か4年間で拙速に書き上げられたので、後世の評判が悪いとされました。それに対して、『新唐書』は国が安定な北宋時代の大文豪・欧陽修(おうよう・しゅう)が主要責任者として再編纂されたもので、信憑性がより高いと言えます。例えば、楊貴妃は元々寿王(唐の玄宗の第18子李瑁=り・ぼう=)の妃であることは『旧唐書』に記載されなかったのですが、『新唐書』には記載されました⑦。では、なぜ『新唐書』で楊貴妃の遺体について記載がなかったのでしょうか?何か裏事情でもあったのでしょうか?
 こうして、「楊貴妃の遺体が行方不明」ということが、「楊貴妃の逃亡説」を裏付け、支持されるようになりました。
 いくつかの推測では、楊貴妃がとても気立てのいい人で、馬嵬で死んだのではなく、多面の援助を得て逃亡したという説がありました。例えば、元夫である寿王「李瑁」は軍隊を調達し逃亡途中の楊貴妃を助けたかもしれない、外国使節の接待を掌る官庁長官「鴻臚卿」を務める楊貴妃の甥「楊暄」は関係が親しい遣唐使に助けを求めたかもしれない、玄宗に楊貴妃の死罪を進言した高力士は楊貴妃の縊死に自ら立ち会い、誰も近づけないようにしたかもしれない…。多くの「かもしれない」が、楊貴妃が逃亡できる便利条件となりました。

 では、もし楊貴妃の逃亡が本当なことなら、彼女はどこへ逃げたのでしょうか?

「楊貴妃図」高久靄厓筆 静嘉堂文庫美術館蔵(Takaku Aigai(1796 – 1843) 高久靄厓, Public domain, via Wikimedia Commons)

日本への逃亡説

 1963年、日本のある少女はテレビで自分の家系図を展示し、自分が楊貴妃の子孫だと主張して、ちょっとした騒ぎとなりました。
 楊貴妃が日本へ逃亡した話は日本の民間と学術界に長い間に存在しています。その中にある一つの有力な説は、馬嵬で縊死させたのは一人の侍女でした。陳玄礼は楊貴妃の美しい容姿と玄宗の深い悲しみを憐れんで、楊貴妃を死なせるのは忍びなかったので、高力士と密かに申し合わせて、侍女を代わりに死なせました。高力士は楊貴妃を縊死させた後、遺体を検死したのは陳玄礼だったので、楊貴妃を侍女に代える計画を成功させました。そして、楊貴妃は陳玄礼の側近により付き添われて、今の上海付近の近海に舟に乗って、日本の遣唐使阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ)と藤原刷雄(ふじわら の よしお)と一緒に、日本の山口県の大津郡油谷町久津(現在の長門市)に辿り着きました。
 当時、日本の皇室は唐の先進の技術、制度や文化を学び取っていたので、唐の貴妃の到来に対して、熱烈な歓迎と厚遇で接待しました。楊貴妃が日本に到達した後に、当時の孝謙天皇が自ら接見し、奈良付近の和歌山に住所を手配し、さらに藤原刷雄との婚約も手配しました。日本の首都が平安京に遷都された時に、楊貴妃も京都に引っ越して、三十年間も過ごした後京都で病没しました。享年68歳でした。
 こうなると、楊貴妃が日本に逃亡した説について、日本では人的や物的証拠が存在するだけでなく、さらに楊貴妃に関する事物が日本全国各地でも発見されました。
 さらに、日本の歴史家邦光史郎氏の著書『日本史面白事典 楽しみながら歴史に強くなる本』によれば、楊貴妃は死後、山口県長門市の二尊院に埋葬されました。現地には「楊貴妃の墓」と呼ばれる五輪塔が今も残っています。二尊院には、玄宗が楊貴妃を慰めるために特別に日本に持ってきたと言われる釈迦牟尼と阿弥陀如来の立像が祀られており、今、日本の重要文化財に指定されています——。

 楊貴妃の最期は一体どうなったのでしょうか。正史にある簡略で曖昧な記載、文学作品にある情け深い描写、そして日本各地で口伝えで引き継いだ伝説。楊貴妃の最期はその美貌と同じように、今を生きる私たちに無限の想像へと誘い、推測を膨らまさせてくれているのです。


①及潼關失守,從幸至馬嵬,禁軍大將陳玄禮密啓太子,誅國忠父子。既而四軍不散,玄宗遣力士宣問,對曰「賊本尚在」,蓋指貴妃也。力士復奏,帝不獲已,與妃詔,遂縊死於佛室。(『旧唐書・巻五十一』より)
②上乃命力士引貴妃於佛堂,縊殺之。(『資治通鑑・巻二百十八』より)
③玄宗幸蜀,至馬嵬驛,命高力士縊貴妃于佛堂前梨樹下。(『唐国史補・巻上』より)
④喧呼馬嵬血,零落羽林槍。
⑤返魂無驗表煙滅,埋血空生碧草愁。
⑥明眸皓齒今何在,血汚遊魂歸不得。
⑦始為壽王妃。(『新唐書・列伝第一』より)

(翻訳・心静)