『楊貴妃吹笛図』の一部(鳥文斎栄之、1756–1829)(パブリック・ドメイン)

 8世紀初頭、有能な唐の玄宗が天子として即位しました。その後の数十年間、彼は自国の改革と強化に力を入れたため、これまで見られなかった繁栄と権力が唐朝の中国にもたらされました。そして、文化・芸術面でかなりの発展を遂げました。

 唐朝の初代皇帝は自分の祖先は道教の老子に遡るとしていました。玄宗もまた、道教を修めていました。しかし、治世の後半では、道教に「物極必反」(物事は極まれば必ず逆に向かう)とあるように、次々と悪いことが続くようになりました。大臣や将軍が幅を利かせるようになり、権力は弱まり、戦(いくさ)は敗北に終わり、飢饉が起こり、天変地異が発生したのです。一体誰のせいだったのでしょうか。

 この歴史的な時期に、壮麗な唐朝を急速に衰退させた傾国の美女として、多くの人々から責められた人物がいます。玄宗皇帝の寵姫・楊貴妃です。

 実際のところ、楊貴妃の美しさが国を崩壊させたのでしょうか? それとも、混乱の時期にスケープゴートにされたのでしょうか?

楊貴妃図(Takaku Aigai(1796 – 1843) 高久靄厓, Public domain, via Wikimedia Commons)

すべての花が恥ずかしいと思うほどの美しさ

 737年、玄宗皇帝が最も大切にしていた妃が亡くなり、その悲しみは癒えることがないように思われました。そんなある日、皇帝の前に全く新しい女性が現れたのです。

 楊貴妃は、流れる雲のような髪、すべての花が恥ずかしいと思ってしまうほどの美しい顔立ちだったと言われています。玄宗は初対面から楊貴妃に魅了され、そばを離れることができなくなりました。

 745年、楊貴妃は宮廷の妃としては最高位である「貴妃」の称号を授かります。また、亡き父を含む多くの親族にも称号と栄誉を授かりました。

 楊貴妃の日々の生活は、想像を絶する華やかさで満たされるようになりました。玄宗に慈しまれ、煌びやかな世界の中で、光沢のある絹を身にまとって宝石で身を飾る生活を送っていました。

 しかし、玄宗と楊貴妃が酒を嗜み、晩餐を繰り返し、秀逸な楽曲や踊りを楽しんでいる間に、彼らの周囲にはさまざまな問題が発生し始めていました。

 都から遠く離れた国境では、将軍たちの力が強くなっていました。特に、玄宗と楊貴妃とは近しい関係にあった軍人・安禄山(あんろくざん)が、20万の軍勢を擁して頭角を表していました。

 その一方で、宮廷の役人たちは、私利私欲のために楊貴妃の家族に賄賂を贈っていました。さらに、楊貴妃に心を奪われている玄宗皇帝が公務を怠っている、という不満が人々の間で高まっていました。

叛逆、逃亡、苦悶

 755年、安禄山は軍を動員して中国北部に攻め込みました。安禄山は南下しながら多くの地元の民を兵に迎え入れました。

 756年、安禄山の軍は、唐の都、長安のすぐ外に到着します。玄宗は、楊貴妃と宮廷の多くの者を連れて、山中の険しい道を通り南へと逃亡します。

 しかし、馬嵬駅に近づくにつれ、憤慨すると同時に疲れ果てた臣下たちが、これ以上我慢はできない、と国家を苦しめる「根源」の楊貴妃を自害させるよう玄宗に懇願しました。彼女の死がなければ、これ以上は玄宗を支持できない、と。

 玄宗は、同意するしかありませんでした…。

 芳香と紫色の絹に包まれ、楊貴妃の遺体は、荒れた道端に護衛によって埋められました。

その後…

 玄宗が臣下と共に南方に避難している間に、皇太子の粛宗が皇帝に即位しました。知らせを受けた玄宗は、身を引いて太上皇帝となりました。そして、新しい皇帝が反乱軍から長安を奪還し、老いた玄宗も宮殿に戻りました。

 玄宗は余生を静かに過ごしました。しかし、時が流れても、楊貴妃の思い出を消し去ることはできませんでした。楊貴妃の肖像画を描かせ、毎日その肖像画を訪れて心を癒していました。

 この劇的な歴史物語には、心の病んだ玄宗を憐れみ、あの世の楊貴妃に玄宗を接触させる助けをした道士の話を加えたものもあります。道士は雲上の宮殿に楊貴妃を見つけます。孤独な楊貴妃は玄宗から贈られ大切にしていたかんざしと宝石箱を壊し、楊貴妃からの永遠の愛の証として、一つひとつの破片を玄宗に届けるように道士に頼みます。

 その容姿と才能で唐朝の運命を左右した楊貴妃は、古代中国の「四大美女」の一人としてこれからも歴史に刻まれ続けていくことでしょう。また、白居易の『長恨歌』が恒久化しただけでなく、数多くの文学作品、戯曲、歌劇、映画によって、千年以上にわたり彼女の物語は語り継がれてきました。

(神韻芸術団ホームページより転載)