(Pixhere, CC0)

一、「私」の意味は何に?

 日本語の「私」には、少なくとも私(し)、私(わたし)、私(わたくし)、私(ひそか)の四つの読み方があり、その意味は、自分のことを表す一人称代名詞や、プライベート、公的ではない等があります。

 その語源について調べてみたところ、以下のことが分かりました。

 現在では、自分自身を言う時に一番使用頻度の高い「私」は、元々「おおやけ(公)」に対して個人を意味する「わたくし」として使われていますが、中世以降に、一人称代名詞として用いられるようになったとのことです。

 「私」という漢字は、中国語では、一人称として使用せず、「プライベート」や「公的でない」の意味のみで、自分のことを称する際は「我」を使います。

 私が日本語を習った当初、日本人は何故自分のことを「私」という文字を使うのか、少し戸惑った覚えがあります。

 というのも、「私」という漢字を見たとき、先ず、利己心、私心、エゴ、私腹、滅私、私利私欲……等のマイナスなイメージの言葉を連想していたからです。

 しかし、年齢を重ね、世間に対する認識が深まると共に、私自身の考え方も次第に変わりました。

 人間とは、誰でも私(わたくし)で、しかも強い「私心」、「私欲」を持って生まれて来るため、自分自身のことを「私」という文字で表現することは、むしろ人間の本質を明確に見抜いたからではないか、と思うようになったのです。

二、「利己心」を暴き出す夏目漱石の小説『こころ』

 人間の心の深い闇の部分を赤裸々に暴き出しているのは、夏目漱石の長編小説『こころ』だと思います。『こころ』では、人間の深いところにある「利己心」と、人間としての倫理観との葛藤が見事に表現されています。

 物語の核心部分は「私」が、自殺した「先生」から送られてきた遺書の中で語られています。

漱石山房での夏目漱石(1914年12月撮影)(パブリック・ドメイン)

 先生は学生時代に一緒に下宿した友人Kがいた。先生は下宿先のお嬢さんに密かに恋心を抱いていた。「お嬢さんとKの間に生じた親しさが、私の中に嫉妬の情を呼び起こすこととなり、Kに対しての学問上の劣等感と相まって、私は苦悩を深めていった。」

 ある日、Kからお嬢さんに切ない恋心を持っていることを打ち明けられた。そこで、焦った先生はKを出し抜いて行動に出て、奥さんと相談し、お嬢さんとの結婚を先に決めてしまった。しかし、先生はKに対して、「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」と良心の呵責を感じた。

 友人に裏切られたことを知ったKは、先生を非難せずに自ら命を絶った。

 友情と自分の良心を汚してまで恋を手に入れたが、先生は自分を責め続け、「(中略)平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。(中略)」と心が苦しんでいた。

 結果、お嬢さんを独占したが、先生は「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない人」となった。

 自分の利益しか考えないことから発せられたこの行動は、「私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。」と後々まで先生を苦しめた。

 罪の意識に苦しみ続けながら、屍(しかばね)のように生きていた先生は、とうとい孤独を抱えながら自殺の道を選んだ………

 というとても悲しい話です。自分の欲求を満たそうとする行為が、自分も他人も深く傷つけてしまったという内容です。また、人間には誰しも罪を犯してしまう弱さがあること、そして心の深い闇を隠そうとしても、良心の呵責に耐えきれないこともあることを思い知らされる話でした。

 夏目漱石の造語とされている言葉に「則天去私(そくてんきょし)」というものがあります。それは「天に従い全てを委ね、私心を捨て去る」という意味です。夏目漱石の晩年に「人間が私心、利欲を捨てることの重要さ」を悟ったことから生まれた言葉ではないでしょうか。

三、経営者稲盛和夫の知恵

 物事の判断を如何に行うべきかについて、日本を代表する経営者稲盛和夫は以下のように語りました。

「何かを決めようとするときに、少しでも私心が入れば判断はくもり、その結果は間違った方向へいってしまいます。

 人はとかく、自分の利益となる方に偏った考え方をしてしまいがちです。みんなが互いに相手への思いやりを忘れ、『私』というものを真っ先に出していくと、周囲の協力も得られず、仕事がスムーズに進んでいきません。また、そうした考え方は集団のモラルを低下させ、活動能力を鈍らせることにもなります。

 私たちは日常の仕事にあたって、自分さえよければという利己心を抑え、人間として正しいか、私心をさしはさんでいないかと、常に自問自答しながらものごとを判断していかなければなりません。」

 「私たちの心には『自分だけがよければいい』と考える利己の心と、『自分を犠牲にしても他の人を助けよう』とする利他の心があります。利己の心で判断すると、自分のことしか考えていないので、誰の協力も得られません。自分中心であるため視野も狭くなり、間違った判断をしてしまいます。

 一方、利他の心で判断すると『人によかれ』という心ですから、まわりの人みんなが協力してくれます。また視野も広くなるので、正しい判断ができるのです。

 より良い仕事をしていくためには、自分だけのことを考えて判断するのではなく、まわりの人のことを考え、思いやりに満ちた『利他の心』に立って判断をすべきです。」

稲盛和夫(Science History Institute, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 経営者の決断は会社全体の運命に影響するため、常に正しい判断が求められます。稲盛さんは利他に立って物事を判断するという経営理念を持っていました。

 稲盛さんは若くして京セラを創業し、世界的な企業にまで成長させました。また、第二電電(現KDDI)を設立し、日本航空を再生するなど、その多くの功績から「経営の神様」と称えられていました。稲盛さんは立派な人格の持ち主であり素晴らしい経営者でした。

 人間というのは、利己心や私欲を持って生まれて来ます。それは我々人間の属性でもあり、宿命でもあります。常に私欲、利己心を抑えて行動し、理性的に善悪を判断しなければなりません。そうでなければ、いざ私利私欲だけを追求するパンドラの箱を開けてしまうと、取り返しのつかない結果になり、人生を台無しにしてしまうおそれもあるからです。

 一人称の「私」は、我々には私心、利己心があることを忘れないように、何事も慎重に正しい方向に運ぶように、注意を促している働きがあるのではないかと思いました。

(文・一心)