前漢の文帝(左)と景帝(右)(パブリック・ドメイン)

 中国の歴史における「文景の治(ぶんけいのち)」の時代は、前漢の文帝と景帝の治世を指します。この期間に、他に例がない「ゼロ税率」を実現し、漢王朝の最盛期を切り開いたとともに、その後の武帝時代を漢王朝の全盛期に押し上げる基礎を築きました。
 しかし、「文景の治」以前は、戦乱による経済の衰退と民力の疲弊という状況でした。これに直面した文帝と景帝は、どのような方法で繁盛の時代を創り出したのでしょうか?

惨淡の現実

 前漢の初代皇帝・高祖の劉邦(りゅうほう)は、あらん限りの力を尽くして強大な項羽を打ち破り、前漢王朝を興しました。しかし、劉邦が直面していたのは痛ましい現実でした。
 戦乱によって、多くの大都市が廃墟となりました。大中都市の人口が70%くらい激減し、劉邦の領地である「曲逆(現在の河北省順平県東南)」には人口が三万人から五千人まで減少しました。生産力は破壊され、経済は疲弊し、土地は荒れ、国民が大飢饉に陥り、半数以上の人口が死亡しました。国の財政も極めて窮迫となり、皇帝は毛の色が同じ四頭の馬も揃えられず、大臣らは牛車に乗るしかなかったのでした。
 どうのようにしたら財政を好転できるのでしょうか?
 前漢は「無為の治」「民力に休養を取らせる」という政策を打ち出しました。建国以来、「黄老の学」に基づき、「人間本位主義」「無為の治」を行いました。「無為」とは、何もしないという意味ではなく、朝廷が国民に負担をかけたり、利益を損ねたり、危害を加えたりするような政策を執行せず、国民の意向に従い、国民が好ましい政策を執行するという意味でした。

民に休養を取らせる

 紀元前179年から紀元前141年までの41年間は、前漢の文帝と景帝の治世でした。この時期では、朝廷は賦役①の軽減、農業の発展及び民力の休養を促す政策を執行し、社会経済の持続的な成長をもたらしました。その結果、国民が富裕になり、国庫も潤い繁栄時代を迎え、中国史上有名な盛期「文景の治」として知られています。
 まず、民衆の負担を軽減するために賦役を軽減しました。高祖が在位する12年間(前206-前195年)、ほぼ税率を上げることなく、後期に国の財政状況に応じて税率を若干引き上げました。そして恵帝(前195-前188年)の即位後、すぐに税率を増税前の「十五税一(約6.7%)」に戻し、その後同じ税率が維持され、呂后②の時代になっても変わらなかったのです。文帝の時代には、さらに田租(でんそ)の税率を引き下げ「三十税一(約3.3%)」となりました。これは中国歴史上最も低い田租税率でした。

 次に、生産と経済の発展を促し、課税する範囲を広げることで朝廷の財政収入を増やしました。農業において、朝廷は農桑振興の勅令を何度も発し、世帯数に応じて官職を設置し、農民の生産を奨励するために報奨金を与えました。さらに、荒地を開墾する人を奨励するために税制の優遇措置を設けました。商工業において、文帝はそれまで国有だった山林と河川を開放し、国民が副農産物、塩と鉄の生産に参入できるようになり、これらの産業の発展を促進しました。文帝12年(紀元前168年)には、地域の要塞を通過する際に証明書を提示する制度を廃止し、地域間の商品流通と経済交流を促進しました。
 商品経済の発展に伴い、商工業による税収は徐々に田租を上回ってきたので、田租を減免できるほどの財源を持つようになり、ついに紀元前167年、朝廷が田租の免除を決定しました。景帝の時期に、朝廷は北方の匈奴をはじめとする近隣の民族との通関を再開し、国境貿易を発展させました。「よその物を流し入れ、利益はよそに流し出さない」との原則のもとで、漢は大きな貿易黒字を達成しました。

 第三に、文帝と景帝は、倹約を励行し、贅沢を禁ずるようにしました。文帝は在位期間中、宮殿・庭園・車馬・服飾などの調度品を増やすことがほぼありませんでした。彼は一度、宮中で新しい楼閣の建設を考えましたが、百斤の金(1600両の黄金相当)の予算が必要と聞くと「百斤の金は中流家庭十戸の総財産に相当します。私は先代の宮殿を受け継ぐだけでも、恥ずかしく思っているのに、百斤の金も使って楼閣を建てるなんてとんでもない③」と言って、建設計画を断念しました。国民の課税負担を減らすために、文帝は自分の支出を減らし、側近の衛兵の数も減らしました。
 景帝は、地方からの高級絹織物などの贅沢品の献上を拒否するほか、地方の役人が金、宝石や玉石の購入をすれば「窃盗罪」として問われる勅令を出しました。

 第四は、「貴粟」政策、つまり農業を重視する政策により、農民の所得を上げました。農業の発展により糧食価格が大幅に安くなりました。文帝と大臣らは、農民の所得を確保し、農業生産に目を向けさせる唯一の手段を、農産物の価格を引き上げ、生産者に奨励することだと考えました。そこで、朝廷が採用した政策は、経済が裕福な家庭に対して、農民から買い取った糧食を朝廷に寄贈すれば奨励を与える政策でした。さらに、寄贈した糧食を国境要塞の倉庫に送ってくれる人には、寄贈額に応じてさまざまな官位を授与しました。こうして、国境要塞の糧食備蓄はたちまち満杯になり、各郡の備蓄も徐々に充実しました。郡に1年分の糧食備蓄があれば、その郡は農民の田租を免除できるという政策も実施しました。
 このような政策に後押しされて、農民の収入が確保され、課税負担が軽減されたとともに、朝廷の備蓄も充実してきました。

 第五は、中央集権と地方分権を組み合わせた管理制度を通して、中央集権を段階的に強化する政策を実施しました。前漢初期に実施された「郡国制」は、朝廷の財政負担を軽減し、初期の財政困難を緩和し、地方経済の発展を促進する役割を果たしました。
 また、地方は、当地の状況に応じた民に利する措置を設けました。例えば、斉の地では、商工業が発達し、漁業と塩業にも恵まれていたため、農業税を課しませんでした。呉の地では、銅山と海塩から大きな利益を得られたので、課税を行いませんでした。
 こうした民力に休養を取らせる政策と措置は、戦後の民衆にとっては雪中送炭のようなもので、生活と社会の安定に極めて重要な役割を果たしました。

豪商を抑制

 前漢初期の「民衆に休養を取らせる」政策は、普通の民衆にとっては大きな恵みでしたが、地主(じぬし)と商人などの豪商も巨大な利益を収めました。有力な地主は多くの土地を所有していたため、土地の課税軽減政策から最も利益を得ました。そして、山林と河川の開放から最も利益を得ていたのは商人でした。そのため、「民衆に休養を取らせる」と同時に、地主と商人たちの勢力も日々拡大していました。
 これらの豪商は、莫大な資本を占有していました。一方では、数多くの奴婢(ぬひ)を使役し、贅沢な生活をし、大量な労働成果を費やし、農業生産に影響を与えました。もう一方では、むやみに土地を併合し、多くの独立自営農民を破産にまで追い込みました。財産の格差は、社会秩序を動揺させる最大の不安要素となりました。
 独立自営農民の権益を守り、社会の公平と安定を維持するために、文帝と景帝は豪商を抑制する措置を取りました。文帝の重臣・賈誼(か・ぎ)は、「良くない風俗習慣を改める」「奢侈淫佚(しゃしいんいつ)の風潮に反対」などの提言をしました。景帝の重臣・晁錯(ちょう・そ)は、「余り有るを損じて、足らざるを補う」の思想に基づき、糧食を寄贈した人に官職を与える制度を提案し、豪商に糧食を買い付けてもらうことで、農業を振興させるという提案をしました。二人の提言は採用され、「文景の治」に大きく貢献し、二人は重要な功臣として、後世から賞賛されています。

太平の世

 賦役軽減と農業振興の政策の下で、文帝と景帝の41年間の治世中、前漢は平和と繁栄の時代を迎えました。
 まず、農民の負担が大幅に軽減されました。紀元前202年から紀元前141年までの前後62年間、農民の負担は最も軽い時期でした。当時、農家が所有する百畝の畑の年間穀物収量が約100石(約2976kgに相当④)でした。文帝時期の穀物1石の価格は500銭のため、百畝の畑を所有する農家の年収は「5万銭(約金2.5kgに相当)」でした。「十五税一」の計算では、農民が課される税金は総収入の7.16%を占め、「三十税一」の計算では、農民が課される税金は総収入の3.86%を占めました。紀元前167年、農業税が免除されてから11年間、農民の課税負担は0%になりました。これは歴史上またとないことでした。

 次に、国民の生活が豊かで、社会が安定していました。農民の負担が長い間に軽減されていたため、「文景の治」と呼ばれる安定と平和の時代を迎えました。『史記』によれば、文帝時代、民衆は田租の重い負担から解放され、全国で民衆が富裕で安らかな生活を過ごせるようになりました⑤。武帝の時代には、70年以上にわたって全国で大きな事件がなく、干ばつ、洪水などの自然災害もなく、民衆は自給自足の生活ができただけでなく、自身を慎み、法律を守り、道徳や礼儀をもっとも重要視しました⑥。

 さらに、経済が発展し、国の財政が豊かになりました。経済が繁栄するにつれ、国の財政は建国初期と雲泥の差がありました。「文景の治」の時期から漢の武帝が即位するまでの間、国庫で備蓄された硬貨が錆びるようになり、糧食が腐るほど充実していました⑤。これほど国の財政が豊かな時期は、中国歴史上珍しいものでした。

 これらのことから見ると、前漢「文景の治」の繁栄と平和の盛期は、賦役軽減の政策により達成されたことがわかります。前漢の「無為の治」という政策は、「何もしない」「丸投げ」ではなく、農民が安定して農業に参入できる体制を積極的に作り、農民の生活と農業生産への妨害を最小限に抑え、農民に安定な収入を確保させる政策でした。
 「文景の治」の盛期をもたらした政策は、現代社会にとっても大変参考になるのではないでしょうか。


①賦役(ふえき)とは、農民のような特定階級の人々に課せられた労働のこと。
②呂雉(りょ・ち)は、漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。現代では呂后と呼ばれることが多い。「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。
③上曰:「百金,中人十家之產也。吾奉先帝宮室,常恐羞之,何以臺為!」(『漢書・文帝紀』より)
④前漢王朝期の計量単位1石=29760gで概算。
⑤故百姓無內外之繇,得息肩於田畝,天下殷富,粟至十餘錢,鳴雞吠狗,煙火萬里,可謂和樂者乎!(『史記・律書』より)
⑥漢興七十餘年之閒,國家無事,非遇水旱之災,民則人給家足,都鄙廩庾皆滿,而府庫餘貨財。京師之錢累巨萬,貫朽而不可校。太倉之粟陳陳相因,充溢露積於外,至腐敗不可食。(中略)故人人自愛而重犯法,先行義而後絀恥辱焉。(『史記・平準書』より)

(翻訳・心静)