(絵:志清/看中国)

 「古代中国の婚姻」といえば、中国共産党のプロパガンダの影響を強く受けている現代中国人は「女性の自由を奪う」「時代遅れ」「強制的」などのネガティブな言葉が、つい頭に浮かんでしまうかもしれません。その宣伝によって、古代中国の婚姻はまるで「女性を抑圧するための牢獄」のようにも見える人もいるでしょう。しかし、これは単に、中国共産党が伝統的な婚姻観を破壊するために、稀な例を一般化して誇大し、誤った結論を引き出し、人を欺いているにすぎません。

 実際のところ、古代中国の円満で幸せな婚姻の物語は、数え切れないほど多いのです。「挙案斉眉①」「相敬如賓②」「琴瑟和弦③」等の熟語も、伝統的な婚姻の在り方を表しました。古代社会では道徳水準が高かったので、平和で幸せな婚姻が多くありました。「男主外、女主内(夫は外で働き、妻は家庭を守る)」、「男陽剛、女陰柔(男子は男性らしくて勇ましい、女子は女性らしくてやさしい)」という伝統的な家庭の在り方も、婚姻を幸せで長く存続させ、人類の真の正統文化と生活方式の一つなのです。

 唐の大詩人・李白にも、褒め讃えられる婚姻があります。彼も自分の幸せな婚姻生活を何度も詩に書いていました。それでは、今回、誰でも憧れる、李白の結婚生活をご紹介します。

見初め

 天宝元年(紀元742年)、唐の玄宗皇帝は李白を宮中に招きました。玄宗は李白に会った瞬間、その学識と才能に感銘を受けました。李白を「翰林供奉」として、詔勅の起草を任せ、玄宗の側近に仕えるよう命じました。すると、李白の名声が一気に高まる一方、嫉妬深い人からの誹謗中傷や孤立も伴ってきました。皇帝に媚びるような佞臣(ねいしん)の連中らに付き合うことができないと自覚した李白は、とぼけたふりをして、酒に溺れる生活をしました。
 天宝三年(紀元744年)、長安にいる生活が二年も続かないまま、李白は翰林供奉の辞退を玄宗に申し出ました。玄宗は、李白を引き留めることができないと分かり、李白に賜金を与え、長安を離れることを許可しました。
 長安を離れた後、李白は大梁(現在の河南省開封市一帯)で杜甫と高適に出会いました。三人は意気投合で、詩を詠み、仙道を尋ね、自由自在な生活を過ごしました。そんなある日、李白はある寺院の壁に、後世にも有名な詩『梁園吟』を残しました。
 この詩は、李白と宗氏が出会うきっかけとなりました。
 言い伝えによると、宗氏はある寺院の壁に書かれている『梁園吟』を読んで、李白の才能に深く感銘しました。この詩を保護するために、彼女はこの寺院の僧侶たちに大金を払って、この詩が書かれた壁を買い取りました。
 唐の最盛期にいた当時の人々にとっては、李白の詩に書かれた「蒼生を救い済度する」ことは、ぬけぬけと大きなことを言っているように見えるかもしれません。しかし、宗氏は普通のお金持ちのお嬢様ではなく、彼女の才能、知識と気質は抜きん出ていました。だからこそ彼女は、李白がたわむれに文章を綴って偉そうに大袈裟なことを言う人ではなく、世の中に少ない知行合一で正直な君子であることを分かっていました。
 当時の唐王朝は最盛期を迎えて、一見繁栄して天下太平に見えましたが、朝廷ではすでに闇が渦巻き、混乱と危機が迫っていたのです。佞臣たちが徒党を組み、安禄山(あん・ろくざん)が反乱を図り、大臣たちもみなそれぞれの算段を持っていました。しかし、李白だけは「国家を安定させたい」という志を終始変えていませんでした。これを見抜いた宗氏だからこそ、「大金で壁を買う」という独特なことをしたわけです。彼女にとっては、『梁園吟』の価値は計り知れないものでした。この点から見ると、宗氏は、李白の得難い「心の友」であることが分かるでしょう。

愛おしむ

 宗氏と結婚した後、李白は十年近く平和で幸せな生活を過ごしました。二人の意気投合で仲睦まじい様子を、李白の詩『自代內贈』からも垣間見ることができます。
 ある時、李白は遠方に外出し、妻と離れました。この詩の中では、妻が夫を恋しく思う気持ちを存分に語りました。注目すべき点として、この詩は宗氏が書いたのではなく、李白が宗氏の目線を想像して詠んだものです。
 当時、二人はかなり遠く離れていて通信が困難でした。妻からしばらく手紙を受け取らなかった李白は、妻の筆致や心境を真似して、思慕の念を言い表し『自代內贈』を詠みました。この詩から見ると、李白は遠方にいながら、妻への思いが冷めたのではなく、「蒼生を救い済度する」という使命のために妻から離れなければならなかったのでした。
 天宝十四年(紀元755年)、「安史の乱」が勃発。李白は家族を連れて盧山(現在の江西省九江市)に避難しました。その時、永王・李璘(玄宗の第16子)は何度も李白を配下に招へいしようとしました。李白はこの招へいを「蒼生を救い済度する」という志を実現する機会だと思い、永王の幕僚として赴任することを決めました。妻の宗氏は、夫の志に逆らってはいけないとわかっていたのですが、夫と別れるのを名残惜しく思い、夫の袖を引っ張って離そうとしないのでした。
 李白の詩『別內赴征三首』には、夫と離れたくなくても、夫の理想をかなえてあげようとする優しい女性の姿が存分に描かれていました。そのような愛おしい妻を慰めるため、李白は冗談を交えて、「もし私が功績をあげて、家に帰れる時が来たら、蘇秦(そしん)の愚かな妻のように、私に冷たくならないでくださいね」と妻に語ったことも、この詩に記録されたのです。

奔走

 しかし、李白のこの旅は、功績をあげるどころか、朝廷の争いに巻き込まれてしまいました。李白が連座され、潯陽(現在の江西省九江市)の地に投獄され、死罪の判決がくだされました。
 「夫婦は同じ森の中で住む鳥であれど、災いが訪れれば別々に逃げ出す」という諺がありますが、これは宗氏には全く当てはまらないのです。李白が投獄された後、宗氏はあらゆる手を尽くして夫を救おうとしました。宗氏は、李白が書いた訴状を手にして、夫が正直者で決して反乱の心はないことを嘆願し、助けを求めに至るところを駆けずり回りました。
 ようやく、事のいきさつが明らかになり、李白が死罪を免除され、夜郎(現在の貴州省一帯)を流罪されることになりました。李白は感激を表すために、『在潯陽非所寄內』の詩を書きました。
 この詩の中に出てきた「蔡琰(さいえん)」は「蔡文姫」とも呼ばれ、中国後漢末期の政治家・蔡邕(さいよう)の娘です。彼女は父の命を救うために、声涙ともにくだり、曹操に哀願していた姿は宗氏とそっくりだったそうです。李白は妻を蔡琰になぞらえたことから、宗氏が夫を救うために多大な努力をしたことが分かります。
 宗氏の奔走は、夫へ抱いた「恩義」の理念と、夫の無罪に対する「無条件の信頼」に由来する、妻としての自然な反応だったのではないでしょうか。そのような妻に対して、李白は心より尽きない感謝と自責の気持ちでいっぱいでした。宗氏が李白の心の中で、どれだけ高い地位にいたのでしょうか。

求道(ぐどう)

 乾元二年(紀元759年)、李白は流罪される途中、巫山(現在の重慶市巫山県)付近についたところで、朝廷に恩赦されました。その二年後、李白はようやく家に帰りました。夫婦が六年ぶりに再会したのです。
 「生離(せいり)」を経験した二人の再会はどのようなものだったのでしょうか。歴史での記載が見当たらないので、当時の場面を復元することができませんでした。しかし、やっと再会した二人は、世間で想像されるように、情緒纏綿(じょうしょてんめん)に老いるまで連れ添う生活を過ごすのではなく、一緒に廬山へ道を尋ねに行きました。この時の情景は、李白の詩『送內尋廬山女道士李騰空二首』の中から垣間見えます。
 李騰空(り・とうくう)は、玄宗朝の宰相・李林甫(り・りんぽ)の娘であり、蔡尋真(さい・じんしん)と一緒に盧山に入って修行の道を選んだ女道士です。当時、李騰空はすでに高い修行の境地に達しており、多くの修行者が彼女のもとで修行していました。李騰空の高い神通力があることを後で知った德宗は、彼女が修行した時に住んだ居所を「昭德觀」に改築しました。偶然にも、宗氏も唐の中宗朝の宰相・宗楚客の孫娘で、李騰空と同じく名門の出でした。
 無神論思想で教育された現代の中国人にとっては、高い身分のお嬢様たちがなぜこの世の栄華を捨てて、山に修行に行ったのか、おそらく理解に苦しむことでしょう。実は、古代から現代に至るまで、生命の意義を探求し、生命の境地を向上するために、修行を志す人は数え切れないほどいました。唐の時代には、修煉文化が盛んになり、さまざまな仏家や道家の修行法だけでなく、西洋の宗教も中国に多く伝わってきました。宗氏はもともと修道者であり、仙人を尋ね道を求めることは修行の一つなのです。
 『送內尋廬山女道士李騰空二首』から見ると、妻が道を尋ねる旅に出る際に、李白は妻との別れを惜しむ感情が一切なく、喜んで妻を見送っていたそうです。これを意外に思う人が多いでしょう。実は、李白も、幼い頃から修行し始め、生涯をかけて道を尋ね、苦しみに耐えながら修行していた修道者でした。
真の修煉者は、一時的な幸福や損得を気にせず、苦難を「修行のチャンス」と見なしています。李白は、妻が道を求める決意にとても喜んでいたので、別れを惜しむようなそぶりはありませんでした。詩の中で、李白は、妻がいつか得道することを願い、一緒に仙境に行こうと誘っていました。これはまさに、夫が妻への最高の祝福で、最もロマンチックな言葉だったのではないでしょうか。

 李白と宗氏は、詩で縁を結び、苦難を共にし、やがて一緒に修行するという、美しい婚姻を経験しました。これはまさに、おとぎ話のようなおしどり夫婦とでも言えるでしょう。
 現在、変異した観念の影響で、婚姻の神聖さが軽蔑され、夫婦に恩義があるという価値観が否定されています。離婚、非婚、試婚、不倫、未婚同棲、同性婚などの混沌とした現象が現れ、伝統的な婚姻の形が壊滅状態になりつつあります。中国では、結婚率が年々減少することに対し、離婚率は急増しています。このままでは、「婚姻」はどこへと向かって行くのでしょうか?
 李白と宗氏のように、夫と妻が共に試練を乗り越え、苦楽を共にし、互いを許し、支え合い、さらには同じ志向を持つことこそ、混沌とした世の中の嵐から逃れ、安心して身を置ける「夫婦」という名の港ができます。李白と宗氏のような婚姻は、現代人が伝統的な婚姻の正しい道に戻るための良きお手本となるでしょう。


①挙案斉眉(きょあんせいび)とは、膳を恭しく目の高さまで捧げ持つ、妻が夫を尊敬し夫婦間の礼儀正しいたとえ。
②相敬如賓とは、夫婦が互いに賓客のように尊敬しあうたとえ。
③琴瑟相和(きんしつそうわ、琴瑟相和す(きんしつあいわす)とも)とは、夫婦の仲がきわめて仲睦まじいたとえ。

李白の詩の原文:

『梁園吟』
我浮黄河去京闕 我黄河に浮かんで京闕を去り
挂席欲進波連山 席(むしろ)を挂けて進まんと欲すれば波山を連ぬ
天長水闊厭遠渉 天は長く水は闊くして遠渉に厭き
訪古始及平臺間 古を訪うて始めて及ぶ平臺の間
平臺爲客憂思多 平臺に客と爲りて憂思多く
對酒遂作梁園歌 酒に對して遂に作る梁園の歌
却憶蓬池阮公詠 却って憶ふ蓬池の阮公の詠
因吟緑水揚洪波 因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを
洪波浩蕩迷舊國 洪波 浩蕩 舊國に迷ひ
路遠西歸安可得 路遠くして西歸安んぞ得る可けんや
人生達命豈暇愁 人生命に達すれば豈に愁ふるに暇あらん
且飲美酒登高樓 且らく美酒を飲まん高樓に登りて
平頭奴子搖大扇 平頭の奴子大扇を搖るがし
五月不熱疑清秋 五月も熱からず清秋かと疑ふ
玉盤楊梅爲君設 玉盤の楊梅 君が爲に設け
呉鹽如花皎白雪 呉鹽は花の如く白雪よりも皎し
持鹽把酒但飲之 鹽を持ち酒を把って但だ之を飲まん
莫學夷齊事高潔 學ぶ莫かれ夷齊の高潔を事とするを
昔人豪貴信陵君 昔人豪貴とす信陵君
今人耕種信陵墳 今人耕種す信陵の墳
荒城虚照碧山月 荒城虚しく照らす碧山の月
古木盡入蒼梧雲 古木盡(ことごと)く入る蒼梧の雲
粱王宮闕今安在 粱王の宮闕今安くにか在る
枚馬先歸不相待 枚馬先づ歸って相ひ待たず
舞影歌聲散綠池 舞影 歌聲 綠池に散じ
空餘弁水東流海 空しく餘す弁水の東にかた海に流るるを
沈吟此事涙滿衣 此の事を沈吟して涙衣に滿つ
黄金買醉未能歸 黄金もて醉を買ひ未だ歸る能はず
連呼五白行六博 五白を連呼し六博を行ひ
分曹賭酒酣馳輝 曹を分かち酒を賭して馳輝に酣(ゑ)ふ
酣馳輝 馳輝に酣ひて
歌且謠 歌ひ且つ謠へば 
意方遠 意 方に遠し
東山高臥時起來 東山に高臥して時に起ち來る
欲濟蒼生未應晩 蒼生を濟はんと欲すること未だ應に晩からざるべし

『自代內贈』
寶刀截流水,無有斷絕時。 宝刀流水を截(た)つとも、断絶の時あるなし。
妾意逐君行,纏綿亦如之。 妾が意 君を逐うて行く、纏綿(てんめん)またかくのごとし。
別來門前草,秋巷春轉碧。 別れてこのかた門前の草 秋は黄に春はまた碧(みどり)なり。
掃盡更還生,萋萋滿行跡。 掃い尽せば更にまた生じ 萋萋(せいせい)として行跡に満つ。
鳴鳳始相得,雄驚雌各飛。 鳴鳳 はじめあい得しが 雄驚いて雌おのおの飛ぶ。
游雲落何山,一往不見歸。 遊雲いづれの山にか落つ 一たび往いて帰るを見ず。
估客發大樓,知君在秋浦。 估客大楼を発し 知る 君が秋浦にあるを。
梁苑空錦衾,陽台夢行雨。 梁苑むなしく錦衾 陽台 行雨を夢む。
妾家三作相,失勢去西秦。 妾が家は三たび相となりしが 勢を失って西秦を去る。
猶有舊歌管,淒清聞四鄰。 なほ旧歌管あり 凄清 四鄰に聞ゆ。
曲度入紫雲,啼無眼中人。 曲度(きょくど)  紫雲に入り 啼いて眼中の人なし。
妾似井底桃,開花向誰笑? 妾は井底の桃のごとく 花を開けども誰に向ってか笑まむ。
君如天上月,不肯一回照。 君は天上の月のごとく あへて一たびも廻照せず。
窺鏡不自識,別多憔悴深。 鏡を窺ふもみづからも識らず 別多くして憔悴(しょうすい)深し。
安得秦吉了,為人道寸心? いづくんぞ秦吉了(はっかちょう) 人のために寸心を道(い)はしめん。

『在潯陽非所寄內』
聞難知慟哭 難を聞いて働哭を知る
行啼入府中 ゆくゆく啼いて府中に入りしならん。
多君同蔡琰 多とす※2君が蔡琰(サイエン)と同じく
流涙請曹公 涙を流して曹公に請ひしを。
知登呉章嶺 知る呉章嶺に登り
昔與死無分 むかし死と分なきを。
崎嶇行石道 崎嶇として石道を行き
外折入青雲 外折して青雲に入る。
相見若愁嘆 あひ見てもし愁歎せば
哀聲那可聞 哀声なんぞ聞くべけん。

『送內尋廬山女道士李騰空二首』
其一
君尋騰空子,應到碧山家。 君は尋ぬ  騰空子(とうくうし)、応(まさ)に碧山(へきざん)の家に到るべし。
水舂雲母碓,風掃石楠花。 水は舂(うすづ)く  雲母(うんも)の碓(うす)、風は掃(はら)う  石楠(せきなん)の花。
若愛幽居好,相邀弄紫霞。 若(も)し幽居(ゆうきょ)の好(よ)さを恋わば、相邀(あいむか)えて紫霞(しか)を弄(ろう)せん。
其二
多君相門女,學道愛神仙。 多とす  君が相門(しょうもん)の女(じょ)にして、道(みち)を学び神仙(しんせん)を愛するを
素手掬青靄,羅衣曳紫煙。 素手(そしゅ)  青靄(せいあい)を掬(きく)し、羅衣(らい)   紫烟(しえん)を曳く。
一往屏風疊,乘鸞著玉鞭。 一(ひと)たび屏風畳(へいふうじょう)に往(ゆ)かば、鸞(らん)に乗って玉鞭(ぎょくべん)を著(つ)けん。

(文・文正/翻訳・心静)