礼記集説(snowyowls, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)

一、儒教の「修身」と「経世済民」

 儒教経典の『礼記』の「大学」には、「修身、斉家、治国、平天下」(しゅうしん、せいか、ちこく、へいてんか)と言う有名な言葉があります。それは即ち、「天下を治めるには、まず自らの行いを正し、次に家庭を斉え、国家を治め、そして天下を平和にすべきだ」と言う意味です。自らの修養を高め、そして、最終目標とされている「平天下」、つまり天下の平和を実現することが君子の理想とみなされました。  

 孟子は、人間の心には善悪を理性的に判断する良知が備わっているため、人々が自ら修養を高める努力ができれば、「誰もが尭(注1)と舜(注2)になることができる」と説き、すべての人がそれを実践すべきだと主張しました。

 「平天下」から「経世済民(けいせいさいみん)」という言葉が連想されます。「経世済民」は文字通り「世を治め、民を救済する」という意味です。言い換えれば、「経世済民」は、儒家が言う君子が求める人生における究極の目標となるものです。

二、「経済」の語源 「経世済民」

 ご存知のように、我々が現在使っている「経済」という言葉は「経世済民」が由来となっています。

 「経世済民」は中国東晋の著作『抱朴子』(317年)に既に出ており、隋代になると、儒者王通の著作『文中子』礼楽篇の中で、「皆有経済之道、謂経世済民」と「経済」が「経世済民」の略語として用いられていました。唐代以降になると「経済」そのものも、「廟堂之上、無非経済之才」(『玄宗本紀』)のように、しばしば使われるようになり、いずれも「世を治め、民を救済する」の意味となります。

 日本においては、江戸中期の儒学者、太宰春台の書物『経済録 』(1729) の中で、「凡(およそ)天下國家を治むるを経済と云、世を経め民を済ふ義なり」として初めて「経済」という言葉が使われました。

『経済録 』(人文学オープンデータ共同利用センターよりCC BY-SA 4.0

 「世を治め、民を救済する」の略語である「経済」は、まさしく道徳的、倫理的な意味合いを持つ言葉でした。

三、倫理を追放した経済学

 現代日本語の「経済」は、かつての漢語の意味から大きく離れ、明治期に輸入された西洋語の「economy」を元にしています。「経済」という語が広まったのは、同時期に福沢諭吉が「経済」の語を用いていたことが大きく影響しているとされ、この訳語の考案者を福沢諭吉とする文献もあるそうです。

 経済学者で東京大学名誉教授の岩井克人は「未来世代への責任」という文章にて次のような内容(要約)を述べています。 

 経済学は利己的なので悪魔である。他者に対して責任ある行動を取る「倫理」を否定することから出発した。アダムスミスは、資本主義社会の市場機構という「見えざる手」によって、自己利益の追求が、意図せずに社会全体の利益を増進すると言っている。

 経済学の悪魔ぶりが最も顕著に現れるのが環境問題である。資本主義の私的所有制と自己利益の追求が環境破壊を引き起こすと考えるのが常識である。しかし、経済学者は、私的所有制が環境破壊を解決すると考える。環境問題は、「未来世代」と「現在世代」の世代間の対立である。未来世代の利益実現のために、現在世代が自己利益の追求を抑え、無力な未来世代を代行する「倫理」的な存在になることが要請される。

 結局、経済学が追放したはずの「倫理」を再び呼び戻さなければならず、正に「倫理」こそ地球上で最も枯渇した資源であることを思い出させてくれた。

 我々は「倫理」の欠如した時代に生きています。物質的な欲望が渦巻く社会では、私欲に溺れ、自分を見失いやすいのです。人間は誰しも善悪(利己心と利他心)の両側面を持っているため、自らの悪を抑え、善を促進し、倫理的、道徳的な行動規範や善悪の判断基準を持つことはとても大切なのです。「経済」の語源の原点に回帰し、私たちの活動、目指すべき目標のために、大切な価値観や行動指針を見直してみてはいかがでしょうか。

(注1) :古代中国の伝説上の聖王。五帝の一人。後世理想の天子とされる。

(注2): 中国、太古の伝説的な聖人の帝王。五帝の一人。聖徳ある帝王の模範として尭舜と併称。

(文・一心)