陳元贇(1587〜1671)は、江戸初期に渡来した中国明末の人です。儒、仏、道の三学に造詣が深く、詩書に優れた才能を持つ傍らで、少林武術も身につけており、来日から52年間、多岐に亘って中国文化を伝達し、日本文化に寄与しました。
 本文では、陳元贇についてお話ししたいと思います。

一、文化的の素養と少林寺武道を培う

 明の万暦15年(1587)、陳元贇(ちん げんぴん)は杭州府虎林に生まれました。父親は文、武、富の三つを備えるよう期待を込め、「贇」と名付けました。元贇は幼少から聡敏でした。彼は詩賦や儒家経典を習って、科挙試験の下準備をし、18歳の時、進士試験を受けましたが、残念ながら落第してしまいました。失意のどん底に陥った元贇は放浪生活を送り、1613年、27歳の時、武道発願をして、少林寺山門に入りました。

 少林寺では、少林拳法を習得し、僧兵としての難行苦行に耐え忍び、武道以外にも経、書、陶、医、薬等、日々の厳しい修業に尽力しました。1614年、1年1ヶ月の短期修行を経て、元贇は少林寺から下山しました。

 その後、元贇は以前から傾倒していた道教に心酔し、老荘思想を勉強しました。

二、来日、そして日本で暮らす

 元和5年(1619年)、元贇は商客として初めて長崎にやって来ました。本来早期帰国する予定でしたが、疫病を患い、書道教師として滞在しました。一度帰国した後、1621年、明の使節の通訳として再び来日し、そのまま帰国せず、毛利家の食客となり、その間に、地誌『長門国誌』(注1)を著しました。寛永2年〜4年(1625〜1627)の間、江戸城南の国昌寺において、三浦、磯貝、福野の3名に少林寺系の中国拳法を伝授したと伝えられています。

 寛永15年(1638)、尾張名古屋藩の初代藩主徳川義直がその名声を聞き、彼を尾張に招聘し、食録60石を与えました。その後帰化した彼は、名古屋で暮らすようになりました。

 元贇は林羅山、石川丈山、松永尺五、野間三竹等、当時の代表的な学者、文人、宗教家、医師、学者らと親交を深め、詩を作り、書画、建築、陶芸をよくし、儒教、仏教、道教を極め、学問に充実した日々を送りました。

 そして寛文11年(1671)6月9日、名古屋の自宅で亡くなりました。85歳でした。

三、文化的功績

1)書道

 元贇は書道に巧みで、さまざまな書体に精通し、特に楷書は趙孟頫の書風によく似ていると、高く評価されています。また、隷書の大家としても知られる石川丈山は、陳元贇の字を愛好し、臨模したことがあるそうです。

2)拳法を伝授

 1779年2月に江戸円福山寺に「起倒流拳法碑」が建てられました。現在はこの石碑は東京の愛宕神社にあり、碑文の撰者は江戸中期の漢学者の平沢旭山です。碑文には「拳法之有傳也 自投化明人陳元贇而始 而起倒之號出於福野氏而成于寺田氏…」と書かれており、それは「拳法が伝わったのは、日本に帰化した明国の人陳元贇から始まる。『起倒』という名称は、福野氏から出ており、寺田氏の時にできあがった…」となります。

起倒流 虚倒(こだおれ)(新井朝定, CC0, via Wikimedia Commons)

 陳元贇の柔道への貢献を過大評価しているのではないか等と否定する意見も多くありますが、柔道の発展過程においては、彼が貴重な一石を投じたことは疑いようがないことでしょう。

3)漢詩

 陳元贇は江戸初期の日本詩壇に影響を及ぼしました。多くの文人達との交友があった元贇は、万治2年(1659)から、和歌や漢詩に長じた日蓮宗の元政上人(注2)と親しく交わり、年の差はありましたが、漢詩の愛好者として交友を深めました。また、二人の名を取って命名された著作『元々唱和集』(注3)が、寛文3年(1663)に刊行されました。
 
4)元贇焼

 万治3年(1660)74歳の時、尾張藩邸内に窯を開き、陶器を焼き、「元贇焼」と呼ばれる陶器の作り方を残しました。

 元贇焼について『国焼茶盌』(佐々木三昧、1949)では、「瀬戸の土を取り寄せ、これに呉須で書畫を書き、白青色の水釉をかけて焼き上げたもので、安南に似て雅趣に富み、元贇焼と呼んで好事家が珍重しました。」と述べています。

5)建築 徳川義直廟を設計

 慶安3年(1650)徳川義直が江戸に没し、遺命により瀬戸の定光寺北の山上に葬られ、霊廟が建てられました。義直は儒教の影響を深く受け、死に際しても自分の霊廟を儒教式の建築にすることにこだわりました。廟は儒教の礼制に基づく建物配置をとり、殿舎の銅葺瓦に魚形の正吻や蕨手を乗せるなど、中国風意匠が見られ、江戸時代初期の廟建築の中でも異彩を放つ建造物となっており、設計は陳元贇によるものとされています。そして現在は国の指定重要文化財になっています。

6)著作

 元贇の著作には、『長門国志』『元元唱和集』『老子経通考』『昇庵詩話』『陳元贇書翰』『朱子家訓抄説』『篆書千字文』などがあります。殊に『老子経通考』は彼の代表作となっています。

「老子経通考」 上、下 / 陳元贇 [撰]  河上公 章句(早稲田大学図書館)
 『老子経通考』は元贇が晩年に集大成として完成させたものです。『老子経通考』を脱稿した翌年の寛文11年(1671)、元贇は名古屋の自宅で85年の生涯を閉じました。彼は儒教や仏教を受け入れながらも、人生最後の著述として道学の『老子経』の註解を選び、老荘思想を日本人に訴えようとしました。

 陳元贇の多大な功績を顕彰するため、名古屋市東区の建中寺には、尾張徳川家第19代当主義親題額の「高節千古」と言う題の「既白陳先生碑」(1913年)が建てられ、東京都港区の正山寺にも「陳元贇先生之碑」(1955年)が建てられています。 

(注1):国郡誌、土俗、大守氏族世代源流、儀表、徳行実録、履歴事蹟、総論、讃の八章からなる。元和7年成立 陳元贇著 現山口県文書館所存
(注2):元政上人(1623〜1668)は江戸時代前期の日蓮宗の僧である。陳元贇の影響を受け、漢詩人としても知られ、性霊派の祖と称される。仏書から医学書まで数多くの著書を著した。
(注3):唱和とは、一人の詩人が作った詩に対して、別の詩人がそれを読んで詩歌を詠じること。

参考文献:「日本柔道史の中の陳阮贇の存在」 山本義春 天理大学
     「よみがえる 陳元贇『老子経』」笠尾恭二 早稲田大学空手部

(文・一心)