藤原惺窩像(『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』より)(パブリック・ドメイン)

 江戸時代の日本では、儒教が重んじられていました。その基礎を築いたのは戦国時代の後期を生きた儒学者の藤原惺窩(ふじわらせいか 1561〜1619)でした。藤原惺窩から始まった儒学は、260年も続く徳川幕府の幕藩体制の精神的支柱となり、理論的基礎を与えました。

 藤原惺窩はどんな人物か、彼はなぜ儒教に傾倒したのかを見てみたいと思います。

戦国時代に生まれる

 藤原惺窩は、永禄4年(1561)に播磨国の三木の細河荘という藤原氐の荘園に生まれました。『新古今和歌集』を編纂した藤原定家の十一世孫にあたります。少年期の惺窩は、地元の景雲寺で読み書きを学び、16歳の時、京都五山の一つの生国寺に入門し、僧侶となりました。室町から戦国時代の禅宗寺院では、禅僧たちは仏教の経典を学ぶ他、教養として儒教も習っていました。聡明で勉学に励む惺窩はやがて「才学五山第一」と称せられるようになりました。

仏教に疑問を持ち、還俗

 寺院で禅僧として修行をしながら、漢文、漢文学、儒教も研鑽し、知識を積みました。

 天正18 (1590) 年、惺窩が30歳の時、朝鮮からの使節団が来日しました。筆談による通訳を務めた惺窩は、使節団の一員である許筬(ほそん)と親しくなりました。許筬は朝鮮の朱子学者で、惺窩と度々筆談をし、様々な意見を交わしました。

 当時の朝鮮王朝は朱子学(注1)を国教とした国で、科挙の制度に合格した官僚の支配する法治国家でした。許筬から見れば、「禅宗は個人のことしか問題にせず、社会に関する思想がない。禅宗が社会を指導する理念となっている故に、日本社会が不安定となり、応仁の乱から戦国乱世へと崩壊の道を辿った」と、禅宗に対して批判的な視点を取っていました。

 許筬の言葉を心に留めた惺窩は、禅の出世間と俗世間の理論の調和とは何かを考えました。戦国時代の道義の混乱と退廃した生活実態を目の当たりにし、また自らの家族を戦争で失った苦しい経験から、惺窩は次第に出世間的彼岸の世界観としての仏教に疑問を持ち、世の道徳的秩序を重んじる儒学に傾倒しました。

 そこで、惺窩は還俗し、儒学者としての道を歩み始め、儒学の啓蒙に努めました。

 惺窩の評価を耳にした家康は、惺窩を招き、儒学の解説を求めました。文禄2年(1593)、惺窩はリーダーとしての心得を説いた『大学』(注2)『貞観政要』(注3)などを、家康に講じ、その後も講義を続けました。

頓挫した中国留学と新たな出会い

 日本には儒学の善き師がいないため、惺窩は中国に渡って本場の儒教を学ぼうとしました。慶長元年(1596)、36歳の時、惺窩は鹿児島の山川港から中国行きの船に乗り込みましたが、悪天候のため、船は難破し、中国留学の夢は頓挫しました。

 京都に戻った惺窩は、儒学の経書である六経(易経、書経、詩経、春秋、礼、楽経)の勉強に専念しました。そして、その後の人生を決定づける運命の人である姜沆(きょうこう)と出逢います。

 姜沆は、李氏朝鮮に仕える優秀な儒学者でした。しかし彼は慶長の役の捕虜として、京都に連行されてしまいます。そのような中、大名の赤松広通の援護の下で、惺窩は姜沆と交友し、本格的な朱子学を学びました。仕える国は敵対しても、儒学の研究に励む学者という共通点を持つ二人は交流を深め、姜沆の助力を得た惺窩は『四書五経倭訓』を完成させました。二人の交流は、慶長5年(1600)に姜沆が釈放され帰国するまで続きました。

日本近代儒教への貢献

 日本に儒教が伝わったのは仏教よりも早く、5世紀初めには既に伝来していたと言われています。『日本書紀』には、儒学を学んだ仁徳天皇が理想の政治を行ったとの記述があり、聖徳太子の憲法十七条にも儒学の影響が見られ、その後の律令国家体制においては、官人の養成のために、『礼記』などの儒学経典も用いられていました。しかしながら、その時代は仏教が盛んだったことから、儒教は日本にあまり定着しませんでした。

 鎌倉時代に入ると、朱子学が日本に伝来し、南北朝時代から室町時代にかけて、主に禅僧たちの教養とされました。しかし、藤原惺窩は僧侶でありながら、現実の秩序を軽んじがちな仏教に疑問を持ち、還俗して儒学者となり、それまで仏教の僧侶の教養から、儒学を独立した学問として発展させました。

 惺窩が立ち上げた儒学は、朱子学をメインとしながらも、陽明学を受け入れ、異なる流派に対しても拒絶しない寛容さを持つ学問でした。

 さらに、惺窩は林羅山、那波活所、松永尺五、堀杏庵の4人の高弟からなる「惺窩門四天王」といった人材を育て上げ、家康を始めとした数多くの武将に儒学を講じ、『寸鉄録』、『大学要略』、『文章達徳綱領』等の著書も著しました。

 江戸時代になると、儒学は官学に定められ、国の統治体制の構築に大いに活用されました。

 現在では、藤原惺窩は「近代儒学の祖」と評価されています。

 (注1)  朱子学とは、南宋の朱熹(1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系。
 (注2)  『大学』は、儒教の経書の一つ。南宋以降、『中庸』『論語』『孟子』と合わせて四書とされた。
 (注3)  『貞観政要』は、唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきた。
 
参考文献:疋田啓佑 (2013) 『儒者 日本人を啓蒙した知の巨人たち』致知出版社 
    上垣外憲一 (2018)『鎖国前夜ラプソディ 惺窩と家康の日本の大航海時代』講談社 

(文・一心)