始皇帝陵兵馬俑(kevinmcgill from Den Bosch, Netherlands, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons)

 始皇帝・嬴政は、中華統一後、王の称号から歴史上最初となる新たな称号「皇帝」を号した君主です。「商鞅変法」からの郡制と中央集権を受け継ぎ、度量衡や「同文同軌」、及び典章と法制を統一し、その後2000年以上続いた中国の皇帝政治体制の基礎を確立しました。

 始皇帝の功績について、唐の太宗は、「近世において、世界を平定し、国境を定めた皇帝は、始皇帝と漢の武帝だけである①」と言ったことがあります。唐の詩人・李白は『古風』という詩の中で、「始皇帝は東西南北天地(六合)の全世界を掃蕩(そうとう)し、虎視眈々と天下を睥睨し、何と雄壮であったことか。剣をふるって、浮雲のように群がる敵軍との戦いに勝ち、戦国の諸侯はすべて西方の秦に降ったのだった。明快な決断は、天の導きによるもので、天下を取るという大略を、多くの才子を思うままに走らせて実現した②」と詠いました。また、民国時代の歴史家・柳詒征は、「嬴政が皇帝になった年は、それまでの二千数百年の歴史の終わりで、それからの二千数百年の歴史の始まりとでも言えるので、これは歴史の大きな鍵の一つであると言わざるを得ない③」と評論しています。

 しかし今だに、始皇帝は「暴君」であり、その「暴政」が秦を急速に衰退させた根本的な原因であると、考えている人が少なくありません。では、どうして古代中国人と現代人が考える始皇帝の印象に、このような食い違いがあるのでしょうか?

 今回は、いわゆる始皇帝の「暴君説」の真相を探ってみましょう。

一般人を重い課税と労役で苦しめた?

 「隠宮、徒刑の者七十余万人、乃(すなわ)ち分れて阿房宮(あぼうきゅう)を作り、或いは麗山(りざん)を作らしむ。北山の石を発し、乃(すなわ)ち蜀、荊の地の材を写し、皆至る」④

 『史記』にあるこの記述が、後世の人に始皇帝の「暴政」を印象付けた重要な根拠のひとつです。これまでの解釈では、始皇帝は、宮中での強制労働の刑に服しているもの、そのほかの受刑者も含めて七十万人あまりを動員した。動員した七十万人を「阿房宮」建設と、兵馬俑で有名な始皇帝廟「驪山陵」建設に分けて作業に従事させた。北山から切り出した石、蜀(現在の四川省)、荊州(現在の湖北省)からも建材を取り寄せたとされていました。後世では、なぜか「70万人の一般市民を強制労働させた」と解釈されてしまいました。

 しかし本当は、宮中の役人「隠宮」や軍人、六国の捕虜の一部の計70万人が、驪山陵と阿房宮をそれぞれ建設するために徴用されて派遣されたというのが、この文章の正しい解釈なのです。膨大な人的・財政的・物質的資源を必要としたのは事実ですが、一般人の強制労働はありませんでした。

 秦の時代の兵役や労役は本当に重かったのでしょうか?『漢書』によると、秦の時代の男は一生に1年間の「兵役」、1年間の「予備役」もしくは「駐屯と開拓」、そして年1回に1か月の「交代役務」が義務づけられていたと記されています⑤。これを計算してみると、23歳の男性が50歳になるまでの27年間で、合計4年半未満の労役が義務づけられていた事になります。これは近代国家と比べても大差ありません。

 統計によると、始皇帝在位中の11年間、戦争、建設、駐屯と開拓のために徴用された人数は200万人から250万人だったとのことです。過去の戦争に投入された兵力と比べても明らかに多くはありません。歴史の記載によると、秦の昭襄王の時代にあった戦時の8年間、秦と他の列国を合わせた兵力は少なくとも500万人いました。戦争に投じた500万人と、統一後の工事などに投じた250万人を比較すると、始皇帝による中国統一後は、兵役や労役が大幅に減ったと結論付けられます。また、秦王朝期で施行された法律『秦律』によれば、労役は有給で、衣食住手当もあり、さらには、一世帯で二人を同時に労役に徴用されることは許されなかったとのことです。

 また、秦王朝の刑罰の種類は残酷そうに見えるかもしれませんが、こうした刑罰は秦王朝が発明したものではなく、春秋戦国時代にはすべての諸侯国が採用していました。それどころか、秦王朝は刑法や大民法をもって、国家や社会、あらゆる階級や職業を円滑に運行させていたのです。そして、始皇帝が酷刑を行った事例は『史記』にすら一件もありません。

 始皇帝の法治思想は、泰山の石碑にも刻まれ「治道、運行、諸産業が宜しく、皆法式あり⑥」と明記されていました。国家がうまく機能し、全ての商工業が調和のとれた発展を遂げ、それが皆、法制に基づいているという意味です。瑯琊台にある石碑にも「平等な法制は万物の紀となり、人間関係も円満になる⑦」という意味の言葉が刻まれています。

 始皇帝が六国統一後のわずか10年の間に導入した一連の行政措置は、いくつかの巨大プロジェクトの建設を含め、確かに激しく、速く、急を要するものであったことは事実です。それは恐らく、始皇帝には「生きているうちに後世に多くの富を残したい」という強い思いがあったからだと思われます。同時に、始皇帝の「暴」は、後世の穏やかで謙虚な儒教文化に先立ち、中国文化に強さと激しい生命力を吹き込み、中国文化が二千年以上の時間の流れを経てもなお生き残るための、粘り強い活力を注入しました。

大虐殺を行った?

 想像し難いですが、六国を征服して滅ぼした20年間に、始皇帝が敵を殺したという記録が殆んど見つかりません。燕の太子の丹が、始皇帝暗殺のために荊軻を送った後、秦軍は燕の薊城を占領しましたが、その時でさえ、始皇帝は薊城に火を放つことも、燕の大臣らを殺すことも無かったのです。歴史の記載によると、始皇帝は、燕の王から送られてきた太子の丹の首を受け取っただけでした。そして、秦軍が他の国の都を占領した時にも、城内の敵の将軍、大臣、民衆を残酷に虐殺したという記録はありません。

 始皇帝は、秦の功績のある大臣を優待しただけではなく、かつて滅ぼした六国の貴族をも優待していました。その治世の37年間、始皇帝は一人の将軍も大臣も殺したことがなく、大将軍の王翦(おう・せん)が死罪を犯しても、最後まで富と繁栄を享受することを許しました。また王翦の二人の息子も、始皇帝から褒美を与えられて任用されました。これらは明らかに「暴政」とは呼べません。

 そもそも、もし秦王朝が「暴政」を実行していたのであれば、「酷吏」つまり、数多くの国民を苦しめる無慈悲な官吏が居たはずです。しかし、特筆すべき事実として『史記・酷吏列伝』には、秦王朝の役人は一人も記録されておらず、全てが漢王朝の官吏たちでした。

「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」の真実

 「『焚書坑儒』は『暴政』ではないのか!?」と疑問を持つ人もいるでしょう。ではここから、「焚書坑儒」の真実を調べてみましょう。

 まず、紀元前213年の「焚書」と紀元前212年の「坑儒」は、関連性のない別々の出来事です。初めて「坑儒」を「焚書」などの事と結び付けて言及したのは、ある東晋の人物で、漢王朝期の学者・孔安国が執筆したと偽って捏造した『古文尚書』の序文です。秦と漢王朝期において「焚書」と「坑儒」を結び付けた確かな言及はありません。

 『史記』の「焚書」に関する記載によれば、始皇帝の誕生日に、咸陽宮で宴会が開かれ、70人の博士(はくし)がお酒を献上し、始皇帝にお祝いの言葉を述べたそうです。『漢書・百官公卿表』には、「博士は秦の役人であり、古今を精通し、官職は六百石、数十人もいる⑧」、『続漢志』には、「博士は弟子を指導し,国に難題がある時、相談役をする⑨」と記載されています。この様に秦王朝期には、戦国の伝統を踏襲した博士制度があり、彼らは、国の重大案件の審議会への参加が許されるほど非常に高い地位にいました。

 始皇帝の誕生宴で、現在の文部科学大臣に相当する博士である周青臣は、まず始皇帝の功績を讃えました。周青臣は、千里に過ぎなかった過去の秦の国土を、始皇帝が各地を平定し、夷狄を追放した他、諸侯を郡とし、皆が平和で幸福で戦争のない生活を送れるように変えたことを例えに「古来、始皇帝の功績に及ぶ人はいない」と称賛しました。始皇帝はこれを聞いて喜びましたが、斉国出身の博士の淳于越は、周の祝辞を始皇帝におべっかを使うお世辞の言葉にすぎないと思い、封建制度の好例として殷と周の例を挙げながら「長続きさせるためには、何事も古人の例に倣って行うべきである」と進言しました。

 始皇帝の誕生宴の席で、旧制を讃え、今の秦の郡制の政策を公然と否定したのです。しかし、淳于越のこの大胆な行動は、当時の博士たちが、自由に皇帝に対し意見を述べられた事を表しています。しかも驚くことに「始皇帝はその提案を別途議論することを許した⑩」、つまり、この件について更に討論させたという、始皇帝の対応も『史記』に記録されているのです。もし、始皇帝が本当に「暴君」だったとしたら、このような雰囲気の中で、自分と正反対な意見を引き続き討論させるでしょうか?

 数日後、宰相の李斯は、淳于越が新制度を攻撃したという理由で『焚書令』を上奏し、夏、殷、周の制度を踏襲することに反対しました。李斯は「昔は諸侯が争うとき、多くの遊説士を集めた。世が平定され、法令が統一になった今、民は家庭で農業や生産に専念し、学者は法令や罰刑を学ぶべきだ」と主張し、始皇帝に「私塾の禁制」と「史官に秦以外で書かれた書物を焼かせること」を求めました。李斯は「博士官署に保有するもの以外、全国範囲で私蔵される『詩』や『書』及び百家の著作は、全て地方官庁に送らせて焼却すべきだ」と進言しました。但し「医学、占い、栽培に関する書物は除外して下さい」と補足しました。

 李斯の上書に対する始皇帝の指示は「詔曰:可」ではなく「制曰:可」でした。一文字だけの違いですが、この一文字の違いには大変な差があります。一般的に言えば「詔曰」は官員を含む全ての国民を対象とするものです。対して、「制曰」は官員のみを対象とし、一般の国民を対象としません。「制曰:可」という、やや中立的な指示は、李斯の秦への忠誠心を肯定すると同時に、焚書の範囲と程度を示唆するものでした。

 そして、漢王朝成立後、秦の国書を除き、漢の国の力で複製や至急な修復を必要とする典籍がそこまでなかったことや、今日、湖北省で発掘された秦の書簡からの判断すると、秦の時代に大規模な「焚書」はなかったと思われます。『ケンブリッジ中国史』も「秦の時代の焚書による実害は、想像よりも遥かに少ない」と主張し、むしろ戦争によって破壊されたものがより多かったと述べられています。

 つまり、李斯は始皇帝の勅令をくみ取り、全国範囲で「焚書」を行わず、首都の咸陽で小規模に行っただけで、博士官署が保管していた大量の書物は破棄されなかったということです。それどころか、大胆に反対意見を述べた淳于越博士は、何の処罰も受けませんでした。

 この事件からも、始皇帝の学者に対する寛容さ、情勢を多角的に見極める抜群の知恵、文化伝承の責任を背負う態度、そして卓越した対処の術がうかがい知れます。このように素晴らしい人格と魅力を持つ始皇帝が「暴君」であるはずがありません。

 また、翌年の「坑儒」については『史記』に、始皇帝が信頼していた「盧」と「侯」という二人の方士がいましたが、彼らは「始皇帝は強情で、博士を重視せず、権力に貪欲である」と陰で非難して、始皇帝のために不老不死の薬を作ろうとせず(実は作れないことを恐れて)密かに逃亡した、と記載されています。

 この事件を知った始皇帝は激怒し、勅使を派遣して咸陽にいる他の方士に盧と侯の行方を尋問しました。その結果、不老長生の薬を作ることに関わった方士たちは互いに告発し合い、摘発された人は460人にも及びました。そこで、始皇帝が「阬」という詔書を下し「皇帝に背き欺いたこの方士たちの悪行とその結末を、教訓として世に知らしめよ」という旨の命令をしました⑪。戦国時代や秦王朝期の言葉の習慣では、「阬」または「坑殺」は、現代人が想像する「生き埋め」ではなく、死刑を受けた後、納棺や葬儀を許されず、穴に埋められるという刑罰なのです。

 つまり、「坑儒」という言葉は、「儒学者」ではなく、一部の「方士」たちを処刑したことを指しています。始皇帝の儒学者の淳于越への態度から見ても、処刑されたのは、有意義な進言をしていた「儒学者」ではなく、不老不死の薬を作れるという嘘をつき、始皇帝を騙した「方士」だったと考えられます。

 いかがでしたでしょうか。始皇帝の「暴君説」と「焚書坑儒」の真実を探ってみました。2000年以上にわたって、数え切れないほどの誤解を受けた始皇帝は、偏った評価をされ続けてきたと思います。しかし、史書をよく見ると、全く違うイメージの始皇帝の姿が浮かび上がってきます。私たちは、色眼鏡をはずし、様々な角度から歴史上の人物を見ていく必要がありますね。

註:
①近代平一天下,拓定邊方者,惟秦皇、漢武。(『貞観政要・巻八』より)
②秦皇掃六合,虎視何雄哉。揮劒決浮雲,諸侯盡西來。明斷自天啓,大略駕羣才。(李白『古風・其三』より)
③蓋嬴政稱皇帝之年,實前此二千數百年之結局,亦為後此二千數百年之起點,不可謂非歷史一大關鍵。(柳詒征『中国文化史』より)
④隱宮徒刑者七十餘萬人,乃分作阿房宮,或作麗山。發北山石槨,乃寫蜀、荊地材皆至。(『史記・本紀<秦始皇本紀>』より)
⑤月為更卒,已復為正,一歲屯戍,一歲力役。(『漢書・食貨志上』より)
⑥治道運行,諸產得宜,皆有法式。(『泰山刻石』より)
⑦端平法度,萬物之紀。以明人事,合同父子。(『瑯邪臺刻石』より)
⑧博士,秦官,掌通古今,秩比六百石,員多至數十人。(『漢書・百官公卿表』より)
⑨掌教弟子。國有疑事,掌承問對。(『後漢書<志・百官二>』より)
⑩始皇下其議。(『史記・本紀<秦始皇本紀>』より)
⑪使天下知之,以懲後。(『史記・本紀<秦始皇本紀>』より)

(文・古道/翻訳・清水小桐)