清・黄慎の『墨牡丹』(國立故宮博物院・台北、パブリック・ドメイン)

 黄慎(こう・しん)は、清王朝期の傑出した書画家で、字は恭懋(きょうぼう)、恭寿、菊壮、号は癭瓢子(えいひょう)、福建省寧化出身です。「揚州八怪(ようしゅうはっかい)」の一人です。

 「揚州八怪」とは、清康煕中期から乾隆末年にかけて、中国揚州地区で活躍した似たような作風を持ち、個性豊かで風変りな画家たちの総称です。彼らの名前は在世中から広く知られていました。その中の一人である黄慎は、詩作・書作・画作のいずれもが秀逸で、その作品は「三絶」と称されています。彼は三度にわたって揚州に住み、鄭板橋(てい・ばんきょう)などと親交を交わしていました。

 黄慎の描く人物は秀逸でした。早期には、画家の上官周(じょうかん・しゅう)に画を学び、精緻な人物画・山水画を描きました。後期には、唐王朝期の書家・懐素(かいそ)の書から啓発を受け、粗放の描線での写意作風に転換し、墨と筆遣いで濃淡や強弱をつけるという大胆な描き方を用いて、複雑な構図で気韻を表現しました。

 黄慎は歴史上の物語や神話、そして仏像、文人、士大夫①、船引きや漁師など、多岐にわたり数多く人物像を描きました。描かれた人物の衣紋の筆遣いは、変化に富み兎起鶻落(ときこつらく)②の勢いがあり、シンプルな線で描かれた人物は、外見と内在の精神を見事に表現していました。

 黄慎は、山水画で名を馳せていた訳ではありませんでしたが、山水画も優れており、大幅も小景も垢ぬけていました。彼の山水画は、早期には元王朝期の画家黄公望(こう・こうぼう)、倪瓚(げい・さん)を手本にし、中年以降、粗放な描写で写意に重きを置き、その古典的な技法を活かした絵画は、迫力や気概が溢れていました。そして彼の花鳥画は、明代の画家徐渭(じょ・い)を手本にして、画風が大胆で自由奔放でした。

 また、黄慎は詩作にも長けていました。彼の詩文は、清らかな作風と共に、深い霧に包まれた非日常を感じられます。そして詩集『蛟龍詩草』を著して世に伝えました。

 18歳の頃、黄慎は寺に身を寄せていました。昼間は絵を描き、夜は仏像の前の燈明のもとで読書に励みました。人物、花鳥、山水、楼台、虫魚など、描けないものが無いほど、技芸が大いに進歩しました。その後、黄慎は豫章(現在の江西省南昌市)へ旅に出て、呉越(現在の江蘇省、浙江省の一帯)などの地を遍歴しました。

 画の先生である上官周は「吾が門派に黄慎がいると、あたかも右軍の後に魯公がいるようだ③」と、黄慎の才能を高く評価しました。鄭板橋も、「古い寺院に苔が生える風景を愛し、荒れる崖や枯れた木を描くことに慣れている。感情や精神が没する処までも描き、そこに真実がなくとも真の魂がある④」と詩作して贈りました。

 黄慎は、自分の歩んできた人生を振り返って「私は十四、五歳頃から絵画を学び始めたが、時々もうろうとしており、胸に何かが鬱結(うっけつ)しているかのように感じる。空を仰ぎ、その原因を考えて、ふと気が付いた。(中略)私の絵画がまだ未熟なのは、読書していないためだ!」と感慨に浸りました。そこで黄慎は意気込んで決心し、儒教の三礼(さんらい)⑤、『史記』、『漢書』、晋と宋王朝期の文学、杜甫(と・ほ)や韓愈(かん・ゆ)の五言詩、そして中晩唐の詩を熟読しました。そして豁然(かつぜん)と得た悟りを画に落とし込むことで、画の技術が躍進しました。このように寝食を忘れるほど熱心に勉強し続けたからこそ、黄慎は無名の画工から有名画家に成長できたのです。

『錬丹図』(國立故宮博物院・台北、パブリック・ドメイン)

 黄慎の仏道の人物を描いた多くの作品が後世まで伝わっています。『錬丹図』はその中のひとつです。この絵で、黄慎は速い筆勢を遣い、墨の濃淡軽重を調和させています。「かすれ」をきかせた速い書道の運筆を絵画の中に用いて整然とした人物の衣紋を描き、はきはきとした墨線で描かれた人物からはただならぬ風采と気概が伝わってきます。『錬丹図』は、黄慎の成熟期の代表作品の一つとなりました。

註:
 ①士大夫(したいふ)とは、古代中国社会で天子諸侯以外の上流階級。
 ②兎起鶻落(ときこつらく)とは、野うさぎが巣穴から素早く走り出したり、はやぶさが急降下して獲物を捕らえたりする様子。転じて、書画や文章の勢いがあることのたとえ。
 ③右軍とは、天子の率いる三軍のうち、隊列の右翼に配置される軍。魯公は、魯の初代君主・伯禽(はくきん)のことを指す。重要な位置に大事な人がいることのたとえ。
 ④中国語原文:愛看古廟破苔痕,慣寫荒崖亂樹根。畫到情神飄沒處,更無真相有真魂。
 ⑤三礼(さんらい)とは、儒教における礼に関わる三種類の経書『周礼』『儀礼』『礼記』の総称。

(文・戴東尼/翻訳・心静)