蘇東坡風水洞(メトロポリタン美術館, CC0, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 詩・文・書・画のそれぞれの領域で大きな成功を収めた北宋王朝期の大文豪・蘇軾(そ・しょく、1037年-1101年)。字(別名)は子瞻(しせん)で、号(雅名)を東坡居士(とうばこじ)。その号から、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれ、坡公や坡仙などの名で敬慕されていました。

 蘇軾の作品は、彼自身のように削ぎ落とされた美しさを持ち、才思と哲学に富んでいると評価されていますが、その才思と哲学の由来を知る人は少ないようです。

 実は、蘇軾は佛法を学び、世の中を見抜くことができました。したがって、その詩は啓発的な役割を果たし、後世の人々にまで伝わり、ひらめきを与え続けているのです。

 今回は、その蘇軾の才思の根源を辿ってみます。

 人生には様々な困難が立ちはだかるものです。自らの意にそぐわない事に直面した時、迷いや痛みに襲われて、どう対処すべきか分からなくなります。

 しかし、そのような時、じっくりと蘇軾の作品を味わうと、ほこりを被っていた心が、少しずつきれいになっていることに気が付くはずです。蘇軾の作品は、清らかな湧き水のように、私たちの心を潤してくれるのです。

 では何故、蘇軾の作品にそこまでの力が宿っているのでしょうか?それは、彼の作品の根源に「神性」があるからです。修練者だった蘇軾は、修行中、何度も苦難に鍛えられ、何度も苦難を乗り越え、同時に心も昇華し続けていました。心が昇華するたび、彼の詩にも華やかな輝きが増しました。

 波乱万丈な人生を送った蘇軾は、特に官界で何度も浮き沈みを経験しました。当時、朝廷は、新進の宰相・王安石の「変法」を推進していました。蘇軾の恩師や多くの親友は「王安石と政見が異なる」という理由だけで左遷されました。蘇軾はこれを見てきましたが、臆することなく自分の政治的な見解を述べ続けて、その後も京から追放されました。その年から、蘇軾の左遷の旅は始まり、多くの地方を遍歴したにもかかわらず、毎回、更なる僻地まで左遷されていました。さらに、濡れ衣を着せられた烏台詩案(うだいしあん)の一件では、蘇軾は弾圧され命の危険すら感じる程でした。

 それでも、蘇軾は、世間に圧倒されない寛大な心を持つ偉大な詩人でした。彼の詩には人生の哲学が溢れていました。このような厳しい状況で綴られた作品からも、蘇軾の精神世界を垣間見ることができます。

 ここで、蘇軾の二つの作品を見てみましょう。

 ある年、蘇軾は地方に赴任します。途中、澠池県(現在の河南省三門峽市)を通過する時、弟の蘇轍がこの地で蘇軾を見送りました。二人は、五年前に官吏になるために澠池を通ったことを思い出し、とても感傷していました。蘇軾の名作『和子由澠池懷舊』は、このような状況で生まれました。

 人生到處知何似,應似飛鴻踏雪泥。泥上偶然留趾爪,鴻飛那復計東西。老僧已死成新塔,壞壁無由見舊題。往日崎嶇還記否,路長人困蹇驢嘶。

 「人の命とは、天を翔る鴻鵠(こうこく)が地面に降り立ち、雪の上に偶然残した足跡に似ている。鴻鵠が飛び立てば後には、足跡を気にすることがない。老僧が涅槃されて塔婆と変わり、古い壁は崩れ落ち、かつて書かれた貴重そうな文字がもう見分けられない。あの時の苦しい道のりを覚えているか?長い道のりに人は苦しみ、ロバは脚を痛めて嘶いていたよね」

 過去に経験した苦難をいちいち覚える必要がなく、これからは旅路にはだかる困難を乗り越えるだけ。蘇軾は、弟と過去を懐かしむ中でも、これほどの達観を持っていました。

 またある年、蘇軾は杭州から密州まで異動させられます。弟の蘇轍との距離が近くなりましたが、この年の中秋の名月の日に、二人は会う事ができませんでした。団らんを楽しむはずの日に、蘇軾は弟を思いながら、月の下で盃を手に取り、名作『水調歌頭・明月幾時有』を詠みました。

 明月幾時有,把酒問青天。不知天上宮闕,今夕是何年。我欲乘風歸去,惟恐瓊樓玉宇,高處不勝寒。起舞弄清影,何似在人間。

 轉朱閣,低綺戶,照無眠。不應有恨,何事長向別時圓。人有悲歡離合,月有陰晴圓缺,此事古難全。但願人長久,千里共嬋娟。

 「明月はいつから出ているのか。盃を手に青天に尋ねた。天国の宮殿では、今夜は何年の中秋だろう。風に乗って天の上に昇ってみたいが、天上の大理石の宮殿はあんなにも高い所だから、さぞ寒くてとても私には堪えられないのだろう。私は月の下の人の世で影を従え踊るとしよう。

 朱色の宮殿を巡り、低い扉を越えて、眠れない人を照らす月。恨みがある訳ではないだろうに、どうして別れの時に限って満月になるのだろうか。人には悲しみ、喜び、別れ、巡り会いがあり、月には曇りや晴れの日、満ちたり欠けたりがある。これは昔からの事で、完全無欠にするのはとても難しい。だが私たちがいつまでも無事で、千里も離れていても、共にこの美しい月を賞(め)でることができるよう、願ってやまない」

 なんという達観なのでしょう。このような蘇軾の作品に対し、同時代を生きた文人の王闢之(おう・へきし)氏は、「蘇軾の文章と議論は、この時代にない独特で抜きん出た高遠(こうえん)なる作風を持っている。彼はまさに、天上から人間の世界に追放されてきた『謫仙人』と呼ばれるべき人物だろう①」と評価しました。そうです!修練者だからこそ、世俗にとらわれず、とても穏やかな数々の名作を世に送り出す事ができたのです。

 蘇軾は、修煉との縁がとても深かったようです。

 彼は自身の詩『南華寺』で「私は元々修行をする人で、三世もわたり修煉を重ねてきた。しかし、その間に道にそぐわない一念を発したため、このように百年もの罰を受けているのだ②」と語りました。蘇軾は、前世から佛とのご縁を持っていたが、その間に一度だけ戒律を破ってしまったため、この俗世に墜ちて、罪業を取り除かなければならなかったのです。

 俗世の迷いの中で、蘇軾は佛縁から離れかけていましたが、幸いにも現世でも佛縁が途絶えていませんでした。彼は『夜来八万四千偈』という詩で「絶え間なく響く谷川の轟音はお釈迦様の瑞相であり、山の青々とした風光、緑深き木々の森は清浄心そのものである。森羅万象のそのすべてが、まさに八万四千のお経と言われるお釈迦様のご説法である。この悟りを後日人々にどう伝えたらよいのだろうか③」と詠い、佛縁の有難さを感激しながら、悔いのないように修煉を励むことを心に銘じました。

 蘇軾は、俗世の中に居ながらも、自身を修め、修行を続けたからこそ、その非凡なる才思を尽きることなく発揮できたのです。真の理を悟った蘇軾は、世の中のことに囚われることなく、迷いも憂いもなく、穏やかな心を持って、佛から授かった叡智を紙に落とし、数々な名作を後世に残す事ができました。

註:

①中国語原文:「蘇子瞻文章議論,獨出當世,風格高遠,真謫仙人也。」(王闢之『澠水燕談錄・卷四<才識>』より)
②中国語原文:我本修行人,三世積精煉。中間一念失,受此百年譴。(蘇軾『南華寺』より)
③溪聲儘是廣長舌,山色無非清淨身。夜來八萬四千偈,他日如何舉似人。蘇軾『夜来八万四千偈』より。「広長舌」とは、佛の特徴とする三十二の瑞相の一つ。

(文・清寒/翻訳・常夏)