范仲淹(はん・ちゅうえん、989年~1052年)は北宋時代の政治家、文学者、戦略家、教育者です。彼は生涯、将軍から宰相までの高い官職に就き、多額の俸給(ほうきゅう)を受け取っていました。「富は三代に及ばず」という言い方がありますが、范仲淹一族は子孫が栄え、豊かな生活と高い社会地位が長く続いていたのです。范仲淹の4人の息子はそれぞれ、宰相、公卿、侍郎の官職に就き、孫や曾孫の代になるとまた栄え、才徳兼備の人材が輩出しました。

 北宋の仁宗の時代から民国の初期までの800年以上にわたり、范一族は衰えることなく栄え続いた奇跡を成し遂げました。これはどうやってできたのでしょうか?今回は、范仲淹一族の繁栄の秘訣を探ってまいります。

貧しくも揺らがない意志、倹約をもって道徳を養う

 范仲淹が2歳の時に父を亡くしました。頼りがいなくなった母の謝氏は、范仲淹を連れて朱氏に再嫁しました。范仲淹は大人になってこれを知ると、泣きながら母のもとを離れ、醴泉寺(れいせんじ)に身を寄せながら勉強していました。貧しかったため、毎日一杯だけのお粥を作り、そのお粥を4等分に分け、朝晩2分ずつ、野菜の漬物と合わせて食べていました。これは「断虀画粥(だんせいがしゅく)」と言う典故になり、清貧な生活を表す言葉として後世に伝わっています。

 こうして、自身を律しながら貧しい生活を送り、范仲淹は三年間苦学しました。当時、地方官の息子は、年中お粥だけを食べている范仲淹を見て、范仲淹に珍味を与えてました。しかし、范仲淹は一口も味わおうとせず、「私はお粥の生活に慣れています。一回でも珍味を味わったら、お粥しか食べられない貧しい生活に耐えられなくなるかもしれないので、お断りします」と言いました。

 范仲淹が醴泉寺で勉強したとき、自分の部屋に白銀がいっぱい詰まっている壺を偶然見つけました。范仲淹は誰にも言わず、その壺を元の位置に戻しました。その後、高い官職を務める范仲淹に、醴泉寺の僧侶が寄付を求めました。范仲淹は寺の敷地内に白銀が埋まっていることを手紙で伝えました。僧侶たちは手紙通りに、范仲淹がかつて住んでいた部屋で探してみたところ、本当に白銀いっぱいの壺を見つけました。「范仲淹が役人を務めると、百姓たちは安心できるのだ」と、僧侶たちは范仲淹の清廉さに感心しました。

若者たちのために私有地で「郡学」を開設

 范仲淹が蘇州で役人を務める時、蘇州の「南園」を購入し、自分の住居にするつもりでした。住居を建てる前に、風水師から「ここの風水は優れているので、この地から優秀な公卿(官吏)が輩出するのに違いない」と言われました。これを聞いた范仲淹は、この地から優秀な公卿が輩出するのであれば、「南園」を自分の住居にするより、蘇州の若者を教育する学校として利用し、より多くの人々がいい生活を送ってもらうようにした方がずっと良いと考えました。

 そこで、范仲淹が「南園」で「蘇州郡学」を設立し、有名な先生を招いて授業をしてもらいました。そして「蘇州郡学」は当時の名門校となり、多くの人材が輩出しました。約千年もの間、四百人近くの進士と八十人以上の状元は「蘇州郡学」が出身校でした。

「義荘」を創設し、貧しい民衆を広く救済

 晩年の范仲淹は、長年貯めてきた俸給で蘇州郊外に1,000ムーの良田(りょうでん)を購入し、それを「義荘(ぎそう)」と名付けました。「義荘」の賃貸料としてもらったお米で、貧しい民衆を救済していました。范仲淹は、物事を公平に処理できる人に「義荘」の管理を任せ、貧しい人々に、一人一日あたり一升のお米、一年あたりに一匹の布を与え、冠婚葬祭や科挙・進学のための資金援助も提供しました。范仲淹の「義荘」は300世帯以上の家庭を支えていました。王朝や時代が変わっても、范氏の「義荘」は八百年以上にわたって良好な運営を維持してきました。

身をもって手本を示し、質素倹約を家訓に

 范仲淹は宰相まで就き、多くの俸給を受け取る役人でしたが、范仲淹の家の用度が非常に質素で、妻や子供たちの衣食住は最低限までにしました。范仲淹は、自身が質素倹約を心がけただけでなく、それを家訓として代々受け継ぎ、後世に大きな影響を与えました。

 范仲淹の次男である范純仁(はん・じゅんにん)も有名な宰相でした。范純仁は妻を娶る前に、絹で帳(とばり)を作ろうとしましたが、それを知った范仲淹は大変怒り、「帳作りに絹まで使うのか?質素倹約が我が家の従来の家訓なのに、それに背けるとでも言うのか?絹の帳を作ろうとしたら、それを庭で焼き払うぞ!」と范純仁に叱りました。

 范仲淹の厳しい躾の下、范一家は常に質素倹約でした。父の影響を受け、范仲淹の息子たちも慈善活動に励むようになりました。范仲淹が参知政事と言う官職を務めた頃、范純仁に命じて、自分の俸給である五百斛(さか)の麦を船で蘇州の実家に持ち帰らせました。当時まだ若者の范純仁は、船で丹陽を通過する時、父の旧友である石曼卿と出会いました。石家が非常に困難な状況に陥り、亡くなった三人の家族を埋葬するためのお金もないことを知った范純仁は、五百斛の麦と船を全部石家に贈りました。これを聞いた范仲淹は、息子が正しいことをしたと褒め称えました。

 范仲淹が身をもって手本を示したことが息子に深い影響を与えたことが分かります。范純仁は父の跡を継ぎ、庶民の身から宰相まで出世し、父の范仲淹と同じように正直で質素な家風を貫きました。范純仁は「布衣宰相(庶民宰相)」と呼ばれ、彼も俸給の大部分を范仲淹の「義荘」の規模拡大のために使用し、子や孫には厳しく躾け、常に質素な家風を守っていました。

明・安正文「岳陽楼図」(パブリック・ドメイン)

 「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」という范仲淹の『岳陽楼記』からの千古一句。まさに、范仲淹の人生を如実に表しているのです。范仲淹は、生涯を通して民衆の福祉に捧げ、自分の利益を犠牲にしても他人を助けようとする、優しさと慈愛に満ちた人でした。清廉な一生を過ごした范仲淹は、身をもって手本を示し、質素倹約を家訓にしたため、その徳高い行いは子孫を恵み続けました。范氏の子孫は800年以上にわたり、范仲淹の徳を受け継ぎ、家訓を守ることを忘れず、それを実践してきました。そのため、范一家全員が徳と才能に恵まれ、一族は栄え続いた奇跡を世に残したのです。

(文・美慧/翻訳・清水小桐)