明・丁雲鵬「白馬駄経図」(パブリック・ドメイン)

 史実によると歴史上に確かに八戒という人物はいたようです。八戒は得道した高僧で、本名を朱士行と言い、玄奘和尚より三百年以上早く西方浄土へお経を取りに行こうとしました。

 朱士行は三国の曹、魏の時代の高僧でした。西暦203年、河南省の貧しい家に生まれ、十代で出家した後、洛陽の白馬寺で仏教を学びました。当時、仏教は広範囲に伝播されており、出家した人と世俗の人との違いは、剃髪と染め衣を着ているかどうかであり、戒律は伝わっていませんでした。

受戒

 西暦250年、天竺の僧侶である雲河伽羅はインドから洛陽に仏教の戒律を持ってやってきました。白馬寺に戒を授ける式壇を設け、白馬寺は中国の仏教史上初の戒律法会を行いました。当時、僧侶は集団で訓戒を受けていましたが、登壇し受戒したと記録されているのは朱士行だけでした。これにより朱士行は、正式な戒を受けたと認められた漢民族初の僧侶となりました。朱士行の法号は八戒といいます。「戒」は中国古代の文字では「戈」と書き兵器を意味します。両手に武器を持つという意味で造られたのが「戒」です。八戒の元の意味は「八斎戒」で、出家する男女の教徒の為に制定した八項目の戒です。殺生、盗み、色欲心、嘘をつく、飲酒、間食、娯楽や贅沢を戒めるといったことを含めた非常に厳しいものでした。受戒した後、朱士行はすべてを厳守しました。

 朱士行の人となりは、学業すぐれ、気品際立ち、律儀な行いと固い意志を持ち合せていました。出家後、彼は洛陽で経文を研鑽し、「小品般若」を説法していました。しかし、当時釈迦牟尼が涅槃に入ってからすでに七,八百年経過していた為に言葉も違っていて、漢民族地域の仏教は口伝えで翻訳されていたので、内容が大雑把なだけでなく誤りと矛盾も多く、前後の文章の筋を完全に理解する方法がありませんでした。ところが西域(タリム盆地諸国を指した)には般若経が集大成された「大品般若経」があると聞き、朱士行はすぐにサンスクリット語の原経を求めて西域に向かう決心をしました。

白馬寺山門(Wikimedia Commons/Gisling CC BY-SA 3.0

 

原経を求める

 当時、西域の交通を回復する計画により、敦煌から西域までの道路はもともとの2ルートから3ルートに増えたことで、朱士行の西方行きの条件が整ったのでした。西暦260年、朱士行は雍州(陝西、甘粛省)を出発し、黄河の西側の地帯を通り、新疆および中央アジアの南道を通過して敦煌に入り、また中央アジアの南道を経過した後、砂漠を横断しました。

 ガイドも付添人もなく、57歳の朱士行は敬虔な心だけにたより、昼夜兼行で人跡まれな旅路をいそぐ中、幾度も飢えや渇きと病にみまわれ、困難や危険が立ちはだかっていました。一万一千里余りを歩き、ついにゴビ砂漠を通り越して、西暦261年ホータン王国(中国語:于闐王国)へ着きました。

 ホータン王国は天山南路の東西交通要路となっており、インド仏教はここから中国国内に伝わりました。朱士行は願い通り「大品般若経」を手に入れました。当時印刷技術がなかったため、朱士行は九十章、計60万字のサンスクリット語のお経の原本を書き写さなければなりませんでした。

紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地)(于闐:ホータン王国)(パブリック・ドメイン)

(つづく)

(文・秦順天/翻訳・夜香木)