清朝の珐琅彩黄地莲花纹钟(左)と唐王朝の三彩宝相花纹盘(右)(神韻ホームページより)

 後漢王朝期、明帝は、金の人が西から飛んでくる夢を見ました。大臣によると、この夢は「聖人の法が西から中土に来る」という意味を示す夢であり、天命でもあると進言しました。そのため、明帝は天命を承り、法を求めて天竺まで使いを派遣しました。天竺の僧人から頂いた佛経と佛像は、白馬に乗り、当時の都・洛陽まで運ばれました。明帝は、中国初の佛寺を建立し、佛像を安置しました。この佛寺は後世に「白馬寺」と呼ばれてきました。

 「南朝四百八十寺」と、詩人の杜牧が漢詩「江南の春」の名句で詠われるように、中国に伝来した佛教は、南北朝期に盛んになり、佛様への信仰は皇帝から庶民まで普及されました。実際、北朝の末期になると、中国各地の佛寺は3万軒を超えました。隋唐王朝期になると、佛家は道家、儒家と併せて、中国の三大信仰になりました。そして宋明王朝期になると、三家は「儒釈道」と呼ばれるようになり、どれ一つとして欠けてはならない、全てが揃ってひとつを成すことができるよう調和し通じていきました。

 二千年近くの普及により、佛家思想は中国伝統文化の隅々まで根深く沁み込みました。文学、絵画、服飾、建築物などなど、中国の文化に馴染んでいる佛教文化の特徴が見受けられます。もちろん、さまざまな伝統文様においても、佛教文化からの文様が数多く存在します。その文様たちは時と共に色褪せることなく、古代中国の人々に愛され、さらには東アジアまで普及していきました。

 一、「蓮弁紋」から「宝相華」まで

 佛家文化において、蓮の花は至高に近い地位にあります。『阿弥陀経』の記載によると、極楽世界の衆生は皆蓮の花から化生(けしょう)してきましたので、佛国は「蓮邦(れんぽう)」とも呼ばれます。釈迦牟尼佛は悟りを開いた後も、蓮の花を模した台座「蓮台(れんだい)」に座り衆生に佛法を伝えます。

 パーリ三蔵では、蓮の花はもっと深い意味を持つようになります。例えば、経蔵小部に収録されている上座部佛教経の一つ『テーラガーター』に、「水に生じた蓮華は清らかな香りがあり、水の中に居ながら、水に汚されない。世に生まれた覚者は、世に住みながら、蓮華のように、世に汚されない」の記載があります。このような「泥より出づるも染まらず」の品格は、節操を大事にする古代中国人に愛され続けてきました。佛教の信者の中にも、蓮の花みたいに徳を守ることで、より高い精神的な悟りを得た人も少なくありませんでした。

青花龍鳳紋碗の底にある変形した蓮の花びらの輪(神韻ホームページより)

 中国語では、一般的に、「ハスの花」は「荷の花」のことを指し、水芙蓉(すいふよう)との別名もあります。李白の『越女詞』で詠われる蓮を採る女たちのように、清々しい香りと共に、清らかな美しさが連想されます。一方、佛教の中のハスの花はスイレンに似ている植物であり、聖潔の意味が増します。

 そんな蓮の花の文様は、春秋戦国時代まで遡ることができます。南北朝時代になると、佛教関連の建築物、器物、具象芸術や織繍作品に蓮の花の文様が出現し始めました。桃の形になる蓮華や、巻雲状の蓮華、丸い形のする蓮華など、様々な変形があります。丸い形のする蓮華の中に、最も古典的な一つは「宝相華」です。

 「宝相」は、佛様や菩薩様の荘厳な姿を意味します。佛家思想において、円満成就は至高な追求であるため、宝相華も優雅な円形になり、中国美術における「丸み」への美的追求にも通じています。宝相華の花びらは何層にも分かれていて、その間に異なる装飾が施され、豊かさと華やかさを感じさせます。唐王朝初期では、宝相華の主体は満開の蓮の花の正面を表す文様でした。盛唐期以降、宝相華は牡丹を起用するようになり、後に菊、忍冬(スイカズラ)、まき草などの植物的な要素を取り入れるようになりました。宝相華も次第に、佛様の荘厳な姿の意味が薄れ、吉祥と幸福を意味するモチーフとして使われるようになりました。

 二、「忍冬紋」から「唐草模様」まで

 南北朝期に流行した忍冬紋は、『敦煌辺飾初歩研究』によると、二つの起源説があります。一つは、バビロニアから起源し、古代ギリシア建築にあるイオニア式の柱の一般的な文様になったそうです。二つは、西域から起源し、佛教とともに中国に伝えられたそうです。佛家文化特有の花で、人間界に存在しない花だとされていたこの花は、中国に伝来してきたら、美しい名前・「忍冬」で呼ばれるようになりました。「冬場を耐え忍び、枯れずに残る」の意味を含んだこの名前は、儒家文化にある「節操」と似ており、佛家文化にある「苦難を遍歴し、輪廻転生」とも似ていますので、中国に何世代にもわたって使われてきました。

青磁釉彫り忍冬紋の單柄壺(神韻ホームページより)

 流麗な輪郭線、どこまでも続く伸びやかさ、無限の変化を見せる忍冬紋様は、中国文化の「動と静の調和」と「永遠」の美学に合致しているため、中国で急速に人気を集めました。唐王朝期になると、忍冬紋様と雲紋が結合し、独特な文様「唐草模様」が誕生されました。その後、忍冬の他に牡丹、蓮華、蘭などの花も唐草模様に起用されました。その優雅で華麗な造形と瀟洒な魅力は、中国のみならず、隣国の日本でも大人気となりました。

 三、如意紋

 西洋美術に似ている文様が存在する唐草模様と異なり、「如意紋」は中国特有の紋様です。現代で工芸品とみなされる「如意」は、古代において日用品だったそうです。一説によれば、「如意」の原型は隋唐王朝期から出現した古代の「爪杖」、つまり孫の手だったそうです。しかし、「如意」の原型は、黄帝時代にすでにあった厄払いの兵器だったという説もあります。

清王朝時期作られた如意(国立故宮博物院・台北)

 現存する如意は、象牙や玉石などの豪華な材質で作られており、様々な形状と構造があります。例えば、まっすぐな造形をする「天官如意」と、前端が霊芝(れいし)のようになる「霊芝如意」などがあります。清王朝になると、玉の如意はとりわけ人気でした。宮中で祝宴が開かれるたびに、皇子や大臣たちは玉如意を献上し、皇帝への最高の敬意を表しました。また、皇帝は時折、大臣や妾、外国使節に如意を配ったこともあります。清朝宮廷から伝わった如意は数え切れないほど種類があります。精緻な彫刻や装飾の他、様々な宝物が施され、持ち手には文字が書かれていることも多くあります。

 また、如意は「笏(しゃく)」にも似ております。「笏」は、古代朝廷において、皇帝に上奏する時大臣たちの「カンペ」でした。実際、佛教においても、如意は同じような使い方をされました。昔は、尊師が説法をするとき、僧侶たちはあらかじめ経典の一節を如意に書き写し、メモにしていたそうです。僧侶の備忘録とはいえ、佛様の神聖なる説法を載せていたことで、如意そのものも神聖の具現となり、人々の吉祥・如意への憧れの象徴となりました。唐王朝期の詩人・張祜は『題畫僧二首』で、「終年語らず、ただ如意を見るだけでも、禪心を実証し大乗に入れるようで(註)」と詠ったように、如意は古代中国人の佛様への信仰の心をも表します。

 これらの美しい文様は、佛家の思想を体現しながら、華夏文化の美意識を貫いてきました。華麗で壮大な宝相華に載せる「円」への愛好は、盛唐期の人々の元気な精神状態を象徴します。忍冬紋様と唐草模様は、動と静の調和を流麗に表現し、世俗を超越した魏晋の名士たちと、優美に袖を広げる舞姫たちを連想できます。そして如意紋は菩薩様の座る祥雲にも似ており、仙女たちが植えた霊芝にも似ております。これらの美しい文様の輪郭線は、中国古典舞踊にある「捩り、傾き、円み、曲り」などの動きと偶然にも一致しています。互いに通じ合う中国伝統文様と中国古典舞踊は、神韻芸術団の演目で、思う存分楽しむことができます。

(註)中国語原文:終年不語看如意,似證禪心入大乘。

(翻訳編集・常夏)