孔子(紀元前552年10月9日―紀元前479年3月9日)(看中国/Vision Times Japan)

 中国人は「中庸」の道を歩み、極端なことを避けることを重視します。これは儒教の影響によるものであり、中国人の国民性の特徴の一つとなっています。しかし、多くの人は、「主流の意見に従い、人と違うことを避け、物事がうまくいかないときには妥協する」ことを「中庸」と思っているようですが、これは実は「中庸」の本来の意味とは真逆です。いわゆる中道的意見を追求しすぎて、ユニークな意見を持つことを意図的に避けるのは、実はある種の「過激さ」なのです。

 そもそも、「中庸」の道とは何でしょうか。中庸の道とは、物事の客観的理解に基づく行動規範であり、社会的意見の真ん中ではありません。
 例を挙げましょう。「適度な食事」を心がけることが大切であると言われています。「食事を控え過ぎ」や「食べ過ぎ」の両極端は、どちらも健康に悪影響を及ぼすため、「適度な食事」が最も健康に良い「中庸の道」になります。ですが、長期的に食糧が不足するような社会環境では、この「適度な食事」が「中庸の道」から外れてしまうのでしょうか?
 もう一つの例を見てみましょう。北京の紫禁城(しきんじょう)の正殿の真ん中には、皇帝専用の広い大通りがあります。大通りの両側には、文官と武官が通る小道があり、左側の道が文官用で、右側の道が武官用です。このような設計自体は、皇帝が「真ん中の道『正道』を歩く」という思想の具現です。もしそこで、皇帝が文官だけを召集した場合、文官が左側の道だけに密集して歩くと、一人で大通りの真ん中を歩く皇帝が文官たちの行列に対して「真ん中」ではなくなるのではないでしょうか。
 この二つの例から分かるのは、「中庸の道」という考え方が、意図的に大多数に従うという意味合いは含まれていないということです。「中庸の道」は「多数派」の意見によって変わることのない客観的な概念なのです。大多数の人々が一方の極端に傾いている時、中道を歩む人は、往々にして群衆全体から離れ、極端な道を歩く特別な存在に見えることが多いかもしれません。しかし、この人が中庸の道を歩くという事実は変わりません。例えば、社会秩序や道徳が乱れていた春秋戦国時代に、社会の風潮と真逆の「伝統的な儀礼」を広めていた孔子は、まさしく中庸の道を歩んでいたのです。

 現代では、「出る杭は打たれる」という考えがあり、多くの人が特定の人物や事象を判断する際に、保守的な態度を取り、断定的な判断を下さない傾向があります。例えば、「中国共産党は悪いことばかりしていたかもしれないが、良いこともしていたのではないか?中国は経済や安全保障の面で、多くの国より優れているのではないか?全体的な視点から物事を見るべきだ」という観点や、「あの人はずっと中国の問題を暴露しているし、ちょっとだけ中共を称賛していただけで、なぜあの人を中共のプロパガンダと呼ぶのだろう?」という観点を聞いたことがあるかもしれません。
 勿論、組織や個人を評価するには全面的に評価することが大切ですが、越えてはならない一線もあるのです。例えば、普遍的な価値や人権は侵してはならないのです。国民の信仰や言論の自由をみだりに侵害し、人身売買を無視して放任し、生きている人からの臓器収奪に手を染めるような邪悪な政権が、どうして経済的功績を謳うに値するというのでしょうか。
 個人についても同様です。法に触れる罪は一つでも犯してしまうと、その人は間違いなく犯罪者であり、法による制裁を受けるべきです。その人が別の方面でどれだけ良い振る舞いをしていたとしても、あるいはどれだけ善行を積んでいたとしても、犯罪者である事実は変わりません。そうでなければ、行った善行の数や寄付したお金の額で、人を騙したり殺したりするノルマと交換することなどができてしまうのではないでしょうか。
 「功罪相償うことができる」と言う人がいるかもしれませんが、しかし、罪を償う一つの前提条件は、その人が悔い改め、自分の過ちを改めようとすることなのです。中国では、「放蕩息子の改心は金にも換えがたい」「自分の過ちを知り、それを改めることができることほど素晴らしいことはない」という言い伝えがあります。西洋の宗教は、罪深い人に神の救いと引き換えに悔い改めて、道を改めるよう教えています。しかし、もしその人が自分の罪を認めなかったり、罪を自覚しても改めなかったりすれば、神がその人を天国に受け入れないのは言うまでもなく、人間界での刑務所でさえ、そのような囚人の刑を軽くすることはありません。
 そのため、正しさの基準を認識し、自分の非を心から認め、改めようとすることができれば、その人の「君子」である本質は、わずかな過ちによって変わることはありません。一方で、原則的な過ちを反省しようとしない者は、間違いなく「悪人」なのです。

 中国共産党(以下、中共)のプロパガンダは広く網を張り巡らし、中国人も日本人も中共のプロパガンダになりかねません。その結果、「あの人(たち)は中共に仕えるプロパガンダではないか」と考えることが時々あるかもしれません。
 ここで注意しなければならないのは、あらゆる方面で中共を賛美する人だけがプロパガンダだというわけではないということです。中共のプロパガンダの根本的な目的は、人々の心の中にある自由や人権といった普遍的な価値への認識を損なわせながら、「経済発展や社会の安定のためには、個人の権利に妥協することも必要だ」と無意識のうちに受け入れさせ、「民主的な政府よりも独裁政府の方が効率的だ」と誤解させることにあります。これによって、中共が定義した、いわゆる「より重要な社会的価値」を実現するのです。
 中共のプロパガンダの目的は、中共が「非常に良い」と人々に思わせることではなく、「中共を受け入れることは必要な妥協」と人々に思わせることにあります。
 このような考えは非常に惑わしい力がありますが、絶対に間違っているのです。芳醇(ほうじゅん)な美酒に一滴の毒が混ざれば、それは毒となり、美酒だからといって喜んで飲んではいけません。例えば、暴力団や麻薬の売人の支配下にある一部の地区は、他の地区よりも表面上は社会や経済が安定しているかもしれませんが、それは暴力団や麻薬の売人が社会の管理者になることを容認する根拠にはならないでしょう。
 このような暴力団のメンバーを「道徳の堕落、富の不均等な分配、深刻な内部紛争」としばしば非難しながらも、彼らの根本的な罪である「外部へ麻薬を売り、内部で人々を奴隷化すること」を意図的に無視し、隠蔽(いんぺい)し、さらにはその地域を対象とする外部からの麻薬排除活動を嘲笑し、「その地域も麻薬取引の問題をコントロールできないのに」とさえ考えているような人は、果たして、社会問題を指摘する「評論家」なのか、それとも暴力団を擁護する「プロパガンダ」なのでしょうか?

 したがって、正しい道を貫くことが「中庸」の基本であり、この「正しさ」を貫くことが、真の意味での「中庸」を維持する基本なのです。中庸的な処世術とは、普遍的な価値観と正しい道理を守ることであり、単に大多数に従ったり平均を取ったりすることではありません。揺れ動く社会世論の中で、大多数に追随して、いわゆる「折衷的な見方」を持つことが、正しい道からの逸脱であり、日和見主義者の特徴で、その本質はしっかりとした考えを持たない臆病さと卑怯さなのです。
 私たちは、どちらにも偏らず、真ん中の正しさを守り、正道と正義を歩むべきなのです。
 共に励みましょう!

(文・広宇/翻訳・清水さきり)