「天台山岩橋図」(一部)(Zhou Jichang(周季常), Public domain, via Wikimedia Commons)

一、南宋恵安院「五百羅漢図」の誕生

 中国浙江省の寧波郊外の東銭湖畔に、かつて恵安院という寺院がありました。南宋の孝宗淳熙(1174〜1189)年間、恵安院の住職であった義紹は、唐の天佑元年(904)に東銭湖青山の頂上に16人の羅漢が顕現したという話に感動し、羅漢を供養したいという住民や信者の願いを叶えるため、地元の有力氏族から寄付を募り、絵師の林庭珪と周季常を招き、淳熙5年(1178)からほぼ10年をかけて、「五百羅漢図」を制作させ、奉納しました。

 完成した絹本着色「五百羅漢図」は100幅からなり、その一幅のサイズは、縦110cm、横53cmほどで、一幅に5人ずつ、合計500人の羅漢が描かれている壮大な作品です。

 「五百羅漢図」は、仏教説話や仏教史上の事件、寺院における僧侶の日常生活など、様々な題材を取り上げ、濃厚な彩色と巧みな水墨技法によって羅漢の姿を生き生きと描いています。

 また、金泥銘文が記された画幅も数多くあり、施入者の姓名、居住地、目的、施入先、勧進僧、絵師名、施入年が記されています。

 恵安院に奉納されていた「五百羅漢図」は、13世紀に故郷を離れ、鎌倉時代の日本に渡来しました。

二、京都大徳寺伝来「五百羅漢図」

 「五百羅漢図」は、全100幅のうち94幅が現存しており、そのうちの82幅が京都大徳寺に所蔵されています。

 「五百羅漢図」はいつ、どのような経路で日本に伝来し現在に至ったのかについては、はっきり分かっていませんが、1246年に渡日した僧侶の蘭溪道隆(注1)が関わった可能性が高いと言い伝えられています。

 「五百羅漢図」は元来鎌倉の寿福寺ないし建長寺にあったのですが、小田原北条氏に移され、北条氏滅亡の際に豊臣秀吉の手に渡り、その後、秀吉が創建した方広寺を経て大徳寺に施入され、現在大徳寺の什宝となっているとされています。

 そして、秀吉が「五百羅漢図」を大徳寺に寄進した際には、100幅のうち、6幅がすでに失われていたとのことです。寛永15年(1638)、絵仏師の木村徳応がそれを補作しました。

 明治27年(1894)、大徳寺はボストン美術館で開催された「古代中国仏教絵画特別展」に「五百羅漢図」のうちの44点を展示した際、10幅が現地で購入され、別ルートで海外へ流出した2幅がフリーア美術館(米国)に所蔵されました。

 現在、江戸初期に補作された6幅を除き、大徳寺に82幅、ボストン美術館に10幅、フリーア美術館に2幅の計94幅がそれぞれ所蔵されています。

三、「五百羅漢図」の世界を覗いてみる

 「五百羅漢図」は、羅漢の日常生活(10幅)、日々の仕事に勤しむ羅漢(10幅)、六道をめぐる救済の旅(20幅)、欲を滅する12の修業(10幅)、羅漢神通力の数(10幅)、霊獣を手なずけ、たわむれる(10幅)、作善と供養を行う羅漢(10幅)、七難から人々を救う(10幅)、東西南北、四大陸へ(10幅)から構成されています。歴史認識に関する視覚情報の宝庫となっています。

 次では、ボストン美術館とフリーア美術館によって公開された「五百羅漢図」の作品を少し覗いてみましょう。

「羅漢洗濯図」(Lin Tinggui, Public domain, via Wikimedia Commons)

 「羅漢洗濯図」は、フリーア美術館に所蔵されています。5人の羅漢と1人の従者が、鬱蒼として生い茂る木々の中を流れる渓流のほとりで洗濯し、服を干している様子が描かれています。絵の右下には、肉眼ではほとんど見えないのですが、絵師の林廷桂の小さな署名があり、淳熙五年(1178)に完成したと記されています。

「天台山岩橋図」(Zhou Jichang(周季常), Public domain, via Wikimedia Commons)

 「天台山岩橋図」は、周季常が淳熙5年(1178)に完成した作品です。フリーア美術館に所蔵されています。

 天台山は、寧波から少し離れたところにある美しい山です。ここには神々や仙人が住んでおり、人間世界と仙人世界をつなぐ石橋がかかっていると古くから伝えられてきました。

 険しい岩にかかった天然の石橋は、長さ7メートルで、幅は30センチしかなく、崖の落差は30メートルとなっており、古来、生死を超越した、不動な精神力を持つ修行僧のみ渡ることが出来るとされています。

 「天台山岩橋図」には、橋を渡ろうとする敬虔な僧侶と、雲の上から彼を見守る5人の羅漢が描かれています。

 「応身観音図」はボストン美術館に所蔵されている、周季常の作品です。絵の中央には、椅子に座っている十一面観音とその左右に4人の羅漢が描かれています。 服飾、裸足、肌色から、画面中央に礼拝を受ける十一面観音は羅漢の化身であることが分かると言います。

 手前に筆と紙を持っているのは絵師の周季常と林庭桂で、その後に合掌をしているのは恵安院住職の義紹であると銘文に記されています。     

「応身観音図」https://collections.mfa.org/objects/24230

 ボストン美術館とフリーア美術館によって公開された他の「五百羅漢図」の作品は、以下となります。興味のある方はご覧ください。

「施飯餓鬼図」https://collections.mfa.org/objects/24233

「雲中示現図」https://collections.mfa.org/objects/24136

「洞中入定図」https://collections.mfa.org/objects/24229

「竹林致琛図」https://collections.mfa.org/objects/24138

「施財貧者図」https://collections.mfa.org/objects/24137

「渡水羅漢図」 https://collections.mfa.org/objects/24232

「受胡輸贐図」https://collections.mfa.org/objects/24135

「観舍利光図」https://collections.mfa.org/objects/24139

「經典奇瑞図」https://collections.mfa.org/objects/24231

 最後に

 「五百羅漢図」には、寄進文とみられる短い文章が金泥で記されていることは以前から知られていましたが、画絹の劣化などにより殆どが剥落し読むことができませんでした。しかし近年、奈良国立博物館と東京文化財研究所が最新技術を駆使した光学調査を行ったところ、48幅に銘文があることが確認でき、銘文の全容をほぼ明らかにしました。これは非常に大きな発見と言えます。

 失われた6幅を除いて、現存する94幅の「五百羅漢図」は、当初の姿のまま残っているため、南宋における羅漢信仰の実態、当時の仏教文化や民俗風習を理解するのに、最も直接的な資料を提供しています

  「五百羅漢図」は非常に豊かな研究価値を内包しており、それに対するこれまでの知識はまだまだ一部でしかないと思われています。今後さらなる研究成果を期待したいと思います。

(注1):蘭溪道隆(1213〜1278)は宋の涪江(四川省)の人で、1246年に渡来した禅僧である。北条時頼の帰依を受けて鎌倉に建長寺を開山。彼の門派は大覚派と言い、多数の禅傑を輩出した。日本最初の禅師号大覚禅師を勅諡された。

(文・一心)