大塩平八郎像(菊池容斎作、大阪城天守閣蔵)(パブリック・ドメイン)

 1837年3月25日、元役人で陽明学者の大塩平八郎は、幕府に反旗を翻し武装蜂起をしました。しかし、反乱は僅か半日で幕府に鎮圧され、大塩平八郎は逃亡したおよそ40日後に、潜伏先で自決しました。
 勝算がないにもかかわらず、自らの命と引き換えに、幕府体制に挑み、為政者の道徳責任を追及した大塩平八郎は、あまりにも大きな代償を払ってしまいました。
 しかし、彼の行動は幕府を大きく震撼させ、後の「生田万の乱」と「天保の改革」につながり、時代を変える一つのきっかけになったと言われています。
 大塩平八郎とは一体どのような人物だったのでしょうか。

一、正義感の強い人柄

 大塩平八郎は、寛政5年(1793)、大坂東町奉行の与力を代々務める大塩家に生まれました。幼い頃に両親を亡くし、祖父に育てられた大塩平八郎は、14歳で与力見習いとして大坂東町奉行所に出仕し、25歳で与力(司法・警察などの治安維持を担当する中級の役人)となりました。大塩平八郎は、性格が真面目で、職務に一生懸命励みました。
 当時、大坂の役人の間では不正や癒着が当たり前のように行われていましたが、大塩平八郎はそれを嫌い、辣腕を振るって数々の事件を解決し、汚職を摘発しました。やがて、『大坂に大塩あり』とまで言われるようになり、全国にその名を轟かせたのです。
 大塩平八郎は清廉潔白で正義感の強い男でしたが、その思想の根底にあったものは「陽明学」でした。

二、「陽明学」から影響を受ける

 「陽明学」は中国の儒学者王陽明(1472〜1529)が唱えた学問です。王陽明は「人間は生来備えている良知(是非・善悪・正邪の判断力)を養って、その良知を窮めて生きること」を説き、そして、「良知と実践とを一体化すべきだ」、つまり、実践を重視した「知行合一(ちこうごういつ)」を主張しました。

朝礼服の王守仁(パブリック・ドメイン)

 「陽明学」を学んだ大塩平八郎は、38歳で与力を辞職し、私塾「洗心洞」を開き、「陽明学」を講じました。彼は王陽明の「知行合一」という言葉を特に大切にし、「口先で善を説くのではなく、善は実行しなければならない」ことを強調しました。
 また『洗心洞剳記』や『儒門空虚聚語』などを著し、同時代の歴史家の頼山陽から「小陽明」と呼ばれるほど、学者としての名も広く知られていました。
 しかし、「良知」を一生懸命説きましたが、世の中の政治腐敗や拡大する貧富の差は一向に改善されず、大塩は憤りが募るばかりでした。

三、天保の大飢饉

 江戸後期の天保4年(1833)から4年続いた冷害や洪水で全国的な米の大凶作となり、「天保の大飢饉」で町に餓死者があふれました。

天保の大飢饉の際、小屋に収容され保護を受ける罹災民を描いたもの。(パブリック・ドメイン)

 それにもかかわらず、幕府の役人や商人たちは、飢饉には目もくれず、相変わらず私利私欲に走っていました。
 死者が続出する惨状を目にした大塩は、奉行所に何度か救済策を提言しましたが拒否されてしまいます。そこで、大塩平八郎は家財や約50,000冊の蔵書を売却し、620両もの大金を用意し、民衆に配りましたが、焼け石に水でした。

四、決起と失敗

 「知行合一を説く自分は、何をすべきか」と大塩平八郎は考えました。
 事ここに至り、彼は武装蜂起によって奉行を討ち、商家の米蔵を開き、大坂城の備蓄米も救済にあてる決意を固めました。
 しかし、2人の弟子に裏切られ、計画がバレてしまいました。仕方なく、予定を早めることにし、準備不足の中、天保8年2月19日(1837年3月25日)、大塩は仲間や弟子達と共に、挙兵の檄文を発し、「救民」の旗を立て、戦いを起こしたのです。
 すぐさま2000人もの幕府軍が到着し、大塩平八郎たちは総攻撃を受け、決起した当日に鎮圧されてしまいました。
 大塩平八郎は、およそ40日間に及ぶ逃亡生活を送りましたが、ついに潜伏先で爆発して自決したのです。その壮絶な最期は、本人と識別することができないほどでした。44歳でした。

五、大塩平八郎の檄文と後世への影響

 大塩の蜂起の動機と思想は檄文に集約されています。
 その要旨は以下となります。
 
 「現世の天下の民が困窮しているようでは、この国は滅びてしまう。
 徳川家康公も『善い政治とは、身寄りもない人たちに対して、もっとも深い哀れみを掛けてあげることだ』と言われた。
 ところがどうか?これまでの240~50年もの間、戦乱はなかった。しかし、社会の上層部の者たちは、贅沢の限りを尽くすようになってしまった。大事な政策を担う役人たちは、公然と賄賂を贈ったり、賄賂を受け取ったりしている。
 民の恨みに呼応して、天も怒っている。近年、地震、火災、山崩れ、洪水等々の自然災害が頻発するようになった。そして、ついに、食糧危機までもが発生してしまった。 これぞ、天が下している深い戒めである。
 もはや我慢することに耐えられなくなった。天下のために、親類縁者に被害が及ぶことも厭わず、この度、有志で話し合って蜂起した。
 
 下々の庶民を苦しめてきた役人たちを討つ。さらに驕り高ぶってきた大坂の金持ちたちをも討つ。そして、彼らが隠し持っている金銀銅貨、あちこちの蔵屋敷に保管されている扶持米を運び出して、人々に配る。
 私たちは、天下国家を盗み取ろうとするような欲得に駆られたものでは決してない。ここに、天命を受けて天誅を下す行為に打って出る。」
(本山美彦の現代文訳より抜粋)
 
 幕府は、大塩平八郎と門弟20人を厳しく取り締まりました。また、自害したり、拷問刑に処されたりと厳罰を受けた人は750人にも上ったそうです。
 
 大塩平八郎の乱は短命でしたが、江戸幕府を大きく震撼させ、僅か30年後に江戸幕府は瓦解しました。
 一方、民衆の為に立ち上がり、大義に生き、「知行合一」を実践した大塩平八郎の生きざまは、現在でも語り継がれています。

(文・一心)