清・郎世寧、金昆「孝賢純皇后親蚕図」一部(国立故宮博物院・台北、パブリック・ドメイン)

一、「お田植え」と「ご養蚕」

 日本の皇室行事の中には、農業に関わるものも多く、毎年恒例の、天皇が行う「お田植え」と皇后が行う「ご養蚕」もその一つです。

 「お田植え」は昭和2年(1927)に、昭和天皇が即位した直後に、皇居内の生物学御研究所のそばに水田を設け、農業奨励のために始められたものです。

 その後、毎年春になると、天皇は皇居内の水田で田植えをし、9月には稲刈りをし、収穫したものを宮中祭祀などに供える、という恒例行事となりました。

 昭和天皇が始めた皇室の稲作は、平成、令和の天皇へと大切に受け継がれました。

 一方、皇居・紅葉山での皇后の「ご養蚕」の始まりは、明治4年(1871)に遡ると言います。その年の3月、昭憲皇太后は吹上御苑の一部に御養蚕所を設け、桑の栽培や蚕の飼育などを自らなさったそうです。

 皇室のご養蚕は、明治から大正、昭和、平成、令和へと、歴代皇后に伝わり、皇室の一つの伝統として引き継がれてきました。

 蚕の飼育は、春から初夏にかけて、掃立て(はきたて)、給桑(きゅうそう)、上蔟(じょうぞく)、繭かきといった各段階の作業が行われますが、皇后は全ての工程に携わられ、また、長年飼育されてきた日本在来種の「小石丸」の繭糸(けんし)は、正倉院の絹織物の復元の糸として使用されているとのことです。

二、正倉院に伝わる宝物「子日手辛鋤」と「子日目利箒子」

 天皇の「お田植え」と皇后の「ご養蚕」は、どちらも近代になってから始まったものですが、実は、奈良時代には「親耕、親蚕の礼」がすでに行われていました。その証拠となるのが、正倉院に伝わる宝物「子日手辛鋤(ねのひてからすき)」と「子日目利箒(ねのひのめとぎのほうき)」です。

(左)子日手辛鋤(出典:宮内庁ホームページ);(右)子日目利箒(出典:宮内庁ホームページ

 「子日手辛鋤」と「子日目利箒」は、天平宝字2年(758)正月3日の子の日に、お田植えとご養蚕の礼儀が行われた際に用いられ、のちに東大寺に献納されたものです。

 「子日手辛鋤」は、聖武天皇が儀式の中で、田起こしの際に使用したものだと考えられ、「子日目利箒」は孝謙天皇が一年の初めの子の日に、養蚕用の棚を掃き清めるための箒だったと考えられています。

 「親耕、親蚕の礼」は、奈良時代後期のわずかな間でしか行われておらず、その後、中断されてしまいました。明治の昭憲皇太后と昭和天皇がそれを復活させるまで、日本では約1100年もの間途絶えていたのです。

三、「お田植え」と「ご養蚕」のルーツ

 「お田植え」と「ご養蚕」は、古代中国では「藉田(せきでん)」「親蚕(しんさん)」と言い、遡れば中国古代の周王朝(紀元前1046年頃〜紀元前256年)に行きつきます。

 周王朝の国家行事を詳しく書いた『周礼』、『礼記』という儒家経典には、天子が自ら穀物を耕作して豊作を祈る農耕儀礼についての記載がすでにあり、前漢(紀元前206年〜8年)になると、「籍田」と「親蚕」は宮中の正式な儀式になったそうです。

 皇帝が自ら畑を耕すことは、国が農業を重視する考えを表し、国民に農業に専念するよう奨励し、皇后が自ら桑を摘み、蚕を育てることは、女性たちに糸を紡ぎ、布を織ることに精を出すよう勧め、さらに、天下の夫婦、男女に対して、「男耕女織(だんこうじょしょく)」という労働のあり方を示そうとするものでした。

 「藉田親蚕」の礼儀は、形式を変えつつ中国の歴代の王朝にも引き継がれ、特に明と清の時代ではより重要視されていました。明の永楽18年(1420)、都の北京で農耕儀礼を行なう祭祀施設である「先農壇」が建てられ、清乾隆7年(1742)、親蚕礼儀を行う「先蚕壇」が建てられました。毎年春になると、皇帝は「先農壇」に足を運び、神農などの神を祭った後、自ら鋤を手に取って農作業をし、皇后は「先蚕壇」で親蚕の礼を行ったそうです。

先蚕壇(Shizhao, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 日本の近代の天皇制の中には儒教的、中国的な規範が多く取り込まれていると思われます。

 皇室行事の「お田植え」と「ご養蚕」は、古代中国の「籍田親蚕」の礼儀を、近代的な勧農、殖産の装いをまとって復活させたものだと考えられます。

 周王朝から伝わってきた「籍田親蚕」の礼儀は、東アジア圏で広く継承されていましたが、今でも行われているのは日本だけです。

参考文献:『日本古代史・新考 道教と古代の天皇制』(株)徳間書店 

(文・一心)