神韻の初期作品:神のための舞(2013年制作)(動画のスクリーンショット)

 今日ご紹介するのは、オーケストラ舞曲『神に捧げる舞』です。これは、神韻芸術団の公演で用いられたチベット族の舞踊曲です。
 多くある中国の民族の中でも、独特な特徴を持つ「チベット族」。歌と踊りが得意な民族であるため、チベット音楽も非常に明確な民族的特色を有しています。その旋律とリズムは独特で、高音でよく響き、もの寂しく、素朴でありながら奥深く、時空を超えて、人々の心を震撼させる力をもっています。チベット音楽特有の芸術的魅力は、その悠久の歴史的伝統と奥深い文化的実情に由来しています。
 私たちの多くはチベット族についてあまりよく知らないかもしれません。中国共産党は政権を握った後、「チベットは気候が劣悪で、チベット人たちは苦難に満ちた生活の中であがいている」というようなことをみんなに信じ込ませています。しかし、観光業が盛んになるにつれ、チベットを訪れる人が増えていくと、決してそうではないことに徐々に気づき始めています。

チベット族は堅い信仰心と高い精神性を持っている

 私の友人A君は、かつてチベットでの体験を私に話してくれました。
 A君は、家の暮らし向きが比較的良く、いわば「富二代」とみなされており、中国大陸北部の大都市に住んでいます。彼は、同じくその都市に住んでいて、歌がとりわけ上手なチベット出身のBさんを好きになりました。A君は、顔立ちがよく、寛大で上品で礼儀正しく、「富二代」にありがちな傲慢さや横暴さがありませんでした。しかしながら、このチベット族のBさんの彼に接する態度はきわめて普通なものでした。
 A君が思案に暮れていたある時、Bさんが親族を訪ねるために帰郷しようとするのに乗じて、旅行の名目でBさんと一緒について行きました。A君はBさんがとても親孝行であることを知っていたので、彼女の両親の歓心を買うことでBさんの心を動かしたいと思いました。しかし、この旅行が彼の人生観を完全に覆すとは、A君はまったく思いもよりませんでした。
 Bさんの両親はチベットの片田舎に住んでおり、確かに生活状況も比較的貧しいものでした。A君いわく、自分が裕福であることを見せびらかすつもりはありませんでしたが、Bさんの両親に、Bさんが彼と結婚することがどれほど光栄で身分が高くなるかを分かってもらおうと思い、ぜひこの機会を失わないようにと思いました。
 予想通り、Bさんの両親はA君にとても親切で、家にあるおいしい食べ物をすべて持ち出して彼をもてなしてくれました。しかし、Bさんの両親はA君が金持ちだから親切なのではなく、彼らは実は誰に対してもとても親切であることを、A君はすぐに気付いたのです。たとえA君が一文無しであったとしても、彼らは心のこもったもてなしをしたでしょう。
 この家の人たちは、非常に敬虔な信仰を持っており、金銭に対してまったく執着せず、生活は平凡ながらも充実していました。彼らの毎日で最も大切な事柄は、神仏に敬意を表すことです。普段は農作業や牧畜をし、歌を歌ったり踊りを踊ったりしながら、淡々と落ち着いた生活をおくっているのです。そしてこれこそが、A君がこんな環境で育ったBさんに最も惹かれた性質の源でした。
 A君は、こうして一週間以上滞在した後、彼の考えは完全に変わったと言いました。Bさんが自分と結婚して身分が高くなるなんてとんでもない。Bさんがもったいないのです。Bさん一家の精神的な豊かさと比べれば、自分の所持する物質的な豊かさはもはや哀れにすら感じたA君でした。

 チベット族の信仰の堅さには確かに敬服させられます。彼らは代々雪に覆われた高原に住み、チベット仏教を信仰し、物質的なものには無欲で精神性を重んじる民族です。チベット族の音楽はこの思想を反映しており、神仏を歌で讃え、自然の偉大さ、時間と空間の永遠性、生命の意味に感嘆し、幸福や苦楽、そして人生の絶対不変の真理について独自の認識と理解を持っています。
 チベットに伝わる仏教には多くの重要な伝統行事や宗教儀式があります。チベット族はふだん比較的分散して暮らしており、宗教的な行事を祝ったり、宗教活動に参加したりする時だけ集まるのです。これらの活動には歌と踊りが欠かせませんが、とても神聖で厳粛なものでもあります。

神韻交響楽団『神に捧げる舞』

 「神に捧げる舞」の楽曲は、威厳のある低いチベッタン・ホルンの音で始まります。チベッタン・ホルンはチベット族特有の金管楽器の一つで、主に盛大な祝賀の儀式や臣民を招集する際に用いられます。皆さんもご存知のとおり、「神韻交響楽団」は西洋の金管楽器のトロンボーンを使ってチベッタン・ホルンになぞらえています。しかも、この楽曲ではファゴットやフレンチホルンなどの管楽器も使用され、音がより豊かに重なり合うことで、チベット族の祝賀の儀式の厳粛さと高原の雪山の雄大さを表現しています。
 この曲では、神仏を祀るために、人々があちらこちらからやって来て一堂に会し、神仏に敬意を表す様子が聴こえてきます。陽気な音楽の中で、チベット族の人々の心からの喜びや幸せを感じることができます。なぜなら彼らは、神仏への感謝と敬意を表すために心をこめて歌いながら踊るのです。
 私には舞踊をする友人がいますが、彼女は「神韻芸術団」の公演のチベット族の舞踊を観て泣いたそうです。なぜなら、彼女は長年踊りをやっていて、優れたダンサーとして認められており、とりわけチベット族の踊りが得意で、業界内でもみなに賞賛されています。彼女はずっと踊りの「技術」で踊り、観客の歓心を買ってきたのですが、しかし、「神韻」のアーティストたちは神仏のために魂を込めて踊っており、あのような高いレベルに彼女は達したこともなければ、そのような境地すらまったく知らなかったのです、と語りました。彼女は、今までダンサーの人生が無駄に思えて泣いてしまったと言いました。もし、10年もしくは20年前に戻れるのなら、間違いなく「神韻」に入る方法を探していたでしょう、と語りました。神のために踊ることができるなんて、どんなに光栄なことでしょうか。

高い技術とチームワーク 3台の二胡が独奏に?

 曲の中盤になると、次は二胡の独奏の叙情的な一節です。これは「神韻交響楽団」によって創意工夫された、とても独特な部分でもあります。チベット族の楽器には「チベット二胡」という楽器があり、見た目は弦楽器の「二胡」とほとんど同じですが、表現力は二胡に比べてはるかに劣ります。二胡の音色は人の歌声と似ており、チベットの歌の美しい旋律と奥深い境地を表現します。荒々しさの中にある繊細さ、高音で響く中にある抑揚、激しさの中に秘めた感情、安定の中にある高揚感など、多方面にわたって変化や抑揚に富んでいます。
 チベット仏教には古くから高僧が数多く存在し、彼らは生命と宇宙に対する深い理解を持ち、その智恵と境地は常人をはるかに超えています。彼らは仏法を広め、民衆を教化するために多くの歌を創作しました。それらの歌はレベルが高く、深い哲理をもち、代々チベット地域で歌い継がれています。例えば、ミラレパ仏は偉大な修行者であるだけでなく、偉大な歌手でもありました。彼は生涯で500曲以上の歌を創作しました。彼の歌は博大で奥深く、人々の苦しみを哀れみ、慈悲と智恵に満ちています。ですから、チベット族の音楽も「神が伝えた文化」だとも言われるのです。
 『神に捧げる舞』という作品が精彩を放っているところは、短い楽曲でありながらまとまったストーリー性があり、音楽で生き生きとした情景と目に浮かぶ風景を表現しているところです。たとえば、二胡の独奏のところでは、修行者が雪山の上を歩きながら歌う声が聞こえ、その歌声に抑揚があり、馬の蹄の音も軽快に響き、天空には勇ましい鷲が飛ぶ音が聞こえます。気分が高潮する部分の「歌」になってくると、長江と黄河が勢いよく湧き出て、空には大きな雷が鳴り響き、全体に広がる交響曲が真っ正面から吹いてくるようで、雪山の雄大さを感じさせ、まるで自分がそこにいるかのような臨場感を感じさせます。
 もう一つ特筆すべき点は、この一節は二胡の独奏に聞こえますが、実は三台の二胡が同時に演奏していることです。緻密で極めて正確に息を合わせているので、まるで一台の二胡の音色のように聞こえます。これは卓越したテクニックであると同時に、相手と自分の息を合わせる高度な呼吸合わせができて初めて成り立つものです。さらにヴァイオリンを使ったハーモニーもあり、非常に軽やかで柔らかく、しかもとても力強く、非常にリズム感があります。本来なら全く相容れない、あるいは対立するともいえる東洋と西洋の二つの弦楽器が、ここでは見事に神業のごとく一体となっています。

東西の楽器の融合が世界の新たな章を開く

 曲の最終の部分では、太鼓が連続して鳴り響くところから始まり、温かく陽気な舞踊音楽が雰囲気を最高に盛り上げます。そして最後に、チベットの伝統的な白いストール「カタ(Khata)」が神に捧げられた時、速いリズムの音色がピタリと止みました。
 チベット族の人は特に苦難に耐えることができ、忍耐力と意志が極めてかたく、しっかりしていると言う人もいます。実は、これは彼らが提唱する修行と密接に関連しています。彼らは苦しんでいるように見えるでしょうが、彼らはそうは思っていません。人生において苦しみを嘗めることは良いことだと思っており、神仏のご加護を得ることができてこそ、最終的に良い落ち着き先を得ることができると考えているからです。ですから、曲の最終の部分は修行者や修煉者の状態を表しているとも言えます。修煉の道においては勇猛精進し、地道に頑張り続けるしかありません。雲が晴れるのをじっと待っていれば、いつかはきっと明るい太陽が顔を出します。
 チベット族の音楽は優れていますが、チベット族の楽器は逆に非常に単純で、粗末ともいえるような作りで、わりと原始的ともいえます。現在、チベット族の音楽をもっと広めたいと思っている人が多いのですが、その方法が見つかりません。もし現代的な要素を加えてしまえば、チベット族の音楽の本来の特徴がかえって失われてしまうからです。
 一方、「神韻交響楽団」は交響楽の形式で、チベット族の音楽の精華の部分を抽出し、青海チベット高原の雄大な美しさを表現しています。このことは人類の音楽の歴史に華やかな一章を添えています。ですから、多くの聴衆は、「神韻交響楽団」は西洋のクラッシック音楽の世界に新たな章を開いたと同時に、中国古典文化に新たな彩りを現し光輝かせたことに感嘆するでしょう。この時代に生まれて、このような画期的な音楽を拝聴できることはこの上ない幸運なことだと言えます!

(文・安吉/翻訳・夜香木)