旧暦のお正月期間中の提灯(Silentpilot, CC0, via Wikimedia Commons)

 元宵節(げんしょうせつ)は、旧暦の一月十五日(正月の望の日)にあり、一年で最初(「元」)の満月の夜(「宵」)であることで命名された、中華圏の新年を祝う行事の一つです。2024年の元宵節は2月24日です。
 この日では、各家庭は民俗に従い、カラフルな提灯を灯し、花火を打ち上げ、一緒に「元宵(ユェンシャオ)」を食べた後、月見や飾り提灯を鑑賞しに出かけたり、提灯に謎掛けを行ったりする活動に参加します。元宵節は旧暦の元日から始まる新年のお祝いの一連の行事の最終日ですが、新年の幸せがずっと続く祈りを込めて、中華圏はこの最終日でも盛大に祝うのが常です。 

元宵(左)と餡(右)(N509FZ, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

 古代中国人の元宵節の祝い方は、当然ながら、現代人の祝い方とは大きく異なっていました。元宵節を祝う時間の長さで見ると、漢王朝期の元宵節はわずか1日でしたが、唐王朝期では3日間、宋王朝期では5日間になりました。明王朝期ではもっと長く、旧暦正月八日から点灯が始まり、十七日の夜まで10日間も続きました。元宵節は旧正月つながっていましたので、日中は賑わいを見せますが、夜になると華やかな提灯の点灯が始まり、まさに正月の「トリ」ともいえる華やかな光景が見られました。清王朝期になると、元宵節は4、5日間に短縮されましたが、賑やかさが倍増しました。なぜなら、元宵節には、提灯上げや謎解きだけでなく、龍舞や獅子舞い、「跑旱船」、竹馬歩き、「ヤンガー」舞なども含まれているからです。これらさまざまな演目はまとめて「百戯(ひゃくぎ)」または「散楽(さんがく)」と呼びます。

跑旱船(ネット写真)

 古代と現代では大きな違いがありますが、新春の息吹が長らく続くかぎり、元宵節を祝う習慣は変わりません。しかし、このお祭りについてどれくらいご存知でしょうか?ここからは、元宵節に関するいくつかの伝説をご紹介します。まずは、元宵節の起源に関する伝説についてお話しましょう。

元宵節の起源に関する伝説

 漢皇帝劉邦が亡くなった後、正妻の呂后の息子である劉盈(りゅう・えい)が漢の恵帝(けいてい)として即位します。恵帝は温和で誠実な性格でしたが、優柔不断なところがあり、次第に皇太后の呂氏が政治の実権を掌握するようになりました。甥の呂禄(りょ・ろく)を上将軍に、呂産(りょ・さん)を相国に任じ、朝廷の軍事・政務の大権を掌握させました。呂后が亡くなった後、呂氏一族は劉氏の政権を奪おうと決意し、呂禄将軍の家で密かに政変を企みました。このことを知った斉王劉襄(りゅう・じょう)は、劉氏の政権を守るために呂禄を排除したいと考えました。その後、劉襄と叔父の楚元王劉交(りゅう・こう)が皇帝を名乗ろうと西に進軍しました。この情報を知った呂産はすぐに軍隊を送り鎮圧しようとしたところ、朝廷の大臣であった陳平や周勃たちが介入して、政変を企む呂氏一族を誅殺しました。後の「呂氏の乱(りょしのらん)」として知られます。 
 「呂氏の乱」が完全に収まり、紆余曲折を経て、劉邦の四男(庶子)である劉恒(りゅう・こう)が「文帝」として即位しました。文帝は、太平の世を手に入れるのは簡単ではないことを痛感したので、「呂氏の乱」が発生した一月十五日を、国中が提灯をつるし、色絹を飾って祝う祝日「元宵節」に定めました。この日は、宮殿の全ての明かりを点灯するようになりました。

 しかし、この逸話がどれだけ生き生きと描写されたとしても、「呂氏の乱」が発生したのは9月末あるいは10月初めでした。『史記』の研究結果を以て、この伝説が偽説であることを認めた学者もいます。

元宵節に提灯を灯す理由

 さて、ここからは、元宵節に提灯を灯す理由に関する三つの伝説についてお話しましょう。

一、仙人を探すために灯す松明

 古代中国には仙人に関する多くの伝説があり、その中の一つは、元宵節に提灯を灯す理由を説明しました。
 その伝説によると、昔々、旧暦新年の最初の満月の夜、月明かりの下に十七名の仙人が現れるのがぼんやりと見えていました。しかし、ある年突然、大きな雲が現れて夜空を覆い、仙人が見えなくなりました。そのため、慌てた人たちは、十七名の仙人を探すために次々と松明を灯しました。仙人が見つかったかどうかはともかく、その後毎年、松明を灯して仙人を探す習慣が生まれ、やがてそれが自然に民俗として形成されていきました。これが元宵節に提灯を灯す起源だそうです。

二、明るい未来を象徴する「開学灯」

 唐王朝期では、唐の太宗が読書文化を奨励していた関係で、唐の時代には至る所に私塾がありました。古代中国人の通学時間は、現代人とは大きく異なり、旧正月休暇後の私塾は旧暦一月十五日に授業を再開しました。つまり、私塾の新学期の始まりは元宵節だったそうです。
 このような大事な日に、生徒たちは家から美しい提灯を持って私塾に行き、先生に文字を書いてもらってから、その提灯を灯します。この提灯は明るい未来を象徴する「開学灯(始業の提灯)」と呼ばれ、生徒たちは「開学灯」を手にとって町中を歩きまわりました。その後、この習慣は徐々に元宵節に提灯を灯す習慣となったそうです。

三、天帝の罰を逃れる提灯

 伝説によれば、太古の昔、一羽の神鳥が道に迷って神の住まいに帰ることができなかったので、やむを得ず人間界に舞い降りてきました。しかし、ある狩人はこれを神鳥だと知らず、弓矢で神鳥を傷つけてしまいました。神鳥を大切にしていた天帝(玉皇大帝)はこのことを知って激怒し、天より兵を遣わし、正月15日に地上を焼き払うことを計画しました。
 天帝には心優しい娘がいました。天帝が下した命令で罪のない人々を苦しめるのは忍びなかったので、お嬢さんは危険を冒してこっそりと地上に降り、このことを人間に伝えました。恐怖に陥った人々でしたが、お嬢さんは「正月14日から16日までの3日間、家々で松明を燃やし、提灯を灯し、爆竹を鳴らし、花火を打ち上げましょう。そうすれば、厄災を逃れることができましょう」と提案し、人々はこれに従いました。
 天帝は、衆神を率いて南天門より地上を見下ろすと、地上は赤々とした光に包まれていたので、既に地上を焼き払ったと錯覚しました。そのおかげで、人間界が焼き払われなくて済み、皆が救われました。それから毎年、正月15日になると、喜びの提灯を掲げ、爆竹と花火を打上げ、楽しく祝うようになったのでした。

 以上、元宵節に灯す提灯に関する3つの伝説をご紹介しました。忙しい現代社会において、元宵節はさまざまな味の「湯円(タンユェン)」もしくは「元宵」を食べることに圧縮されつつあります。しかし、日本の中華街では、今でも元宵節を祝うさまざまな活動が行われています。今年の元宵節は、美しい満月を鑑賞し、美味しい湯円を味わうだけでなく、中華街に出かけて元宵節の提灯や色とりどりの装飾の美しさを体験することも一興ではないでしょうか。


①「跑旱船(パオハンチュアン)」とは、中国の民間舞踊の一つ。若い女性に扮した人が、タケと布で作った模型の船の船べりを腰に結びつけて上半身を船の上に出し、歌いながら練り歩く。
②「ヤンガー」舞とは、中国の民間舞踊の一つ。一般に男性群が嗩吶(チャルメラ)や太鼓で演奏する伝統的な音楽に合わせて、カラフルな衣装を着けた女性群が輪になって、あるいは蛇行しながら踊るもの。

(文・清浅/翻訳・宴楽)