西施浣紗図(一部)(清・赫達資、パブリック・ドメイン)

 西施(せいし)は、中国の誰でも知っている絶世の美女であり、王昭君・貂蝉・楊貴妃を合わせて「中国古代四大美女」と呼ばれます。彼女は生没年不詳で、その存在すら疑われていましたが、西施が後世に残したのは美貌の伝説だけではなく、彼女の祖国へ献身できる忠誠心の逸話もありました。今回は、そのような西施の物語をご紹介します。

 時は中国の春秋時代。越の王・勾践(こうせん)は呉の王・夫差(ふさ)に敗れ、越が呉の属国に成り下がってしまいましたが、勾践は主権を取り戻す機会を見つけたいという思いは衰えることがありませんでした。臣下の文種(文種)と范蠡(はんれい)の「民間の美女を呉王夫差に献上して戦意を失わせよう」という進言を聞き入れ、范蠡に百人のしもべをつけて民間の美女を探すよう命じました。

 そんなある日、范蠡は一人で城を出て、目的地もなく歩いていたら、繁々と秀麗な高山の群れと谷をさらさらと流れる小川が織りなす、仙境のような絶景の場所にたどり着きました。
 風景に讃嘆していた范蠡は、曲がりくねって流れてきた渓流の上流に目を向けると、そこには色鮮やかな桃李や松柏の木々たちに囲まれる人家がいくつか見えてきました。
 范蠡はその村へ足を運び、数分か歩いていたら、香りのよい風が吹いてきて、じゃぶじゃぶとした水の音が伝わってきました。辿ってみると、范蠡は、渓流のほとりに紗を洗濯している若い女性を見かけました。
 「何という美女でしょう!このような美女がこの世に本当に実在するとは」と内心に驚嘆した范蠡は、その女性に「失礼。ここはどのような場所でしょうか?」
 范蠡の声を聞くと、女性は手の中の洗濯物をいったんおろし、立ち上がって答えました。
 「はい。ここは諸曁(しょき)の県境の苧蘿(ちょら)山で、この村も苧蘿村と言い越の国に属します。妾の名前は施夷光で、先祖の代からずっとこの苧蘿山の下の西の村で暮らしています。苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいるので、皆さんからは『西施』と呼ばれております」
 西施の話し方はとても凛としていて、その立ち居振る舞いも大層おっとりしていました。
 当地の人ではない范蠡に、西施は「こちらの方は、この辺鄙な村にどのような御用でしょうか?」と伺いました。
 范蠡は「越の国の相国を勤める范蠡でございます」と答えました。
 西施は驚き「まあ、相国様でございますね。ご無礼をお許しください。相国様は、王様に大層な忠誠心を尽くし、どこまでも付き従っていると聞きました。王様のお命を取り留めたのも、越国の存続ができたのも、相国様のおかげだと村のみんなが揃って言いました。ところが、相国様は王様のそばにいらっしゃらず、こんな辺鄙な村にお一人でお越しになられるのは、いったいどのような御用なのでしょうか?」と聞きました。
 范蠡は「ここに来たのは、遊びのためではなく、国の大事のために来たのです。王の勅命で、私は民間の才のある方を招こうと、国のあちこちを訪ねておりました」と答えました。
 西施は「さようでございますか。国のために賢士を求めてのご足労、まことにお疲れ様でございます。そこで、逸材や賢士に出会われましたでしょうか?」と続けて聞きました。
 范蠡は「そうですね。半年にかけて、何人かの賢才の方にご縁がありましたが、大任を任せられる方にはまだ出会っておりません」と答えました。
 西施は「わが越国は呉国の下で苦しみ続けてきました。妾は女の身でも、お国のために何かをしてあげたいと常に思っていますので、越国には国のために身を捧ぐ方がまだまだいらっしゃるのではないでしょうか」と言いました。
 そこで范蠡は「今日、この大任をあなたにお任せしたいと思いますが、いかがでしょう。お受けいただければ、わが越国の幸いでもありましょう」と尋ねてみました。
 西施は驚き「相国様の言葉が理解できません。貧しい出身で才能もない妾なんかに大任を任せるというのはどういうことでしょうか?」と聞きました。
 范蠡は隠さず「はい、わが王の勅命で、今回私が探しているのは賢才の方ではなく、絶世の美女なのです」と答えました。
 これを聞いた西施は表情が急変し「相国様、なんということでしょう!王様はようやく国に戻ってくることができて、今はまさに精励して国をよく治めようとする時だというのに、相国様を遣わして絶世の美女を探せというのですか?もし本当に、王様はそのようなお心をお持ちでしたら、相国様がそれを阻止するために助言を送るべきでしょう。なのに相国様はそれを盲従して、国中に美女探しをなさっているのですね?妾は、相国様こそ忠臣だと思っていたのに、今となっては、おべっか使いにしか思われません!」
 西施は大層腹が立ち、洗っていた洗濯物もそっちのけにして、その場を去ろうとしました。
 范蠡は駆け寄って「美人よ、怒りをお鎮めください。王様が美女をお求めになられるのは、ご自分の娯楽のためではなく、呉国への献上のためなのです」と話しました。
 これを聞いた西施は立ち止まり「相国様、国の復興は、英雄や豪傑でしかできないのではないでしょうか。国の復興に、絶世の美女がどんな役に立てるというのでしょうか?」と聞きました。
 范蠡は「呉国は今とても強大で士気が高まり、越国は復讐しようとしてもなかなか機会が訪れません。今日、呉の王は呉の民を酷使して『姑蘇台(こそだい)』を建てたので、この際に美人を献上すれば、呉の王が混乱し、政務がおろそかになり、富が枯渇してから、わが越国は初めて復讐できるようになるのです」と答え、「美人よ、お国のために、身を捧げていただけませんでしょうか」と尋ねました。
 西施は「妾は女の身で生まれたのですが、わが越国は呉国に敗れて、奴隷扱いされるのも久しく、お国のために何かをしてあげたいと常に思っています。お国のために身を捧げるというのなら、この上のない光栄だと存じます」と頷きながら言いました。
 范蠡は大変喜び「お引き受けいただき大変感謝しております。越国の王様から民たちまで、いずれあなた様のご恩に感謝するのでしょう。では、明日、車馬を用意してあなた様をお迎えいたします」と、西施に深くお礼をしました。
 范蠡はすぐさま城に戻り、西施も洗濯物を片付けて家に戻り、家族と別れを告げました。翌日、西施は范蠡に従い勾践に謁見しました。勾践は、歌と舞、身だしなみを西施に教えようと楽師に命じました。こうして三年後、勾践は范蠡に西施を呉の王・夫差に献上させました。
 夫差は西施に会った瞬間、そばにいる忠臣たちの忠告を聞かず、すぐさま西施を自分の下に置きました。夫差は、西施を王妃並みに扱い、寵愛を極めました。西施のために『姑蘇台』に「春宵宮」を建て、硯石山上に「館娃宮(かんあいきゅう)」を築き、大きな池を作りました。夫差は西施の美貌に耽り、政が廃りました。
 一方、勾践はこれを機に力を養った後、呉国の荒廃した状況に乗じて一気に呉を滅ぼしました。呉国が滅亡した後、西施は越国の民として国のために献身しただけでなく、夫差の恩寵に報いるために自ら命を絶ちました。彼女の忠誠心と行動力、そして献身と忍耐という点から見ると、西施に匹敵する人はほとんどいないでしょう。

 2024年、神韻芸術団は、『西施の物語』を中国古典舞踊劇として舞台に取り上げ、世界巡回公演で上演しました。西施の葛藤と決心は、世界中の観客に感動を与えました。
 これから2024年2月16日まで、名古屋、東京(渋谷)、京都、さいたま、堺、大阪、鎌倉、東京(八王子)、東京(文京)、札幌、神戸、福岡の12カ所で公演を行います。神韻でしか観られない舞踊と生演奏のオーケストラの饗宴という特別な体験を、劇場でお楽しみください。

(文・杜若/翻訳編集・常夏)