東京タワーを背景にしている増上寺(東京太郎, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 東京に来たら行くべき寺院10選で、1位の浅草寺に次ぎ、増上寺は第2位と観光サイトに選ばれています。

 増上寺は600年以上の歴史を持つ、徳川将軍家と縁の深い寺院で、東京都港区芝公園四丁目に位置しています。

 増上寺は東京タワー、東京プリンスホテル、芝公園などに囲まれ、現代の街並みと調和しています。その背景に聳え立つ東京タワーと共演する風景は、不思議な美しさを放っており、国内外の観光客を魅力しています。

 増上寺は浄土宗の仏教寺院として室町時代明徳4年(1393)に創建されました。

 その後、増上寺は江戸時代の隆盛期、明治時代の苦難期、大正時代の一時的な復興、昭和時代の空襲により被害を受けるなど、幾つもの時代を生き抜いて来ました。増上寺は歴史の証人だといっても過言ではありません。本文では、増上寺のその栄枯盛衰の歴史を振り返ってみたいと思います。

一、江戸時代の隆盛期

 室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展してきました。

 天正18年(1590)、拠点を江戸に移した徳川家康は早くも増上寺を徳川家の菩提寺(注1)として選びました。

 江戸幕府の成立後、家康の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛を迎えました。

 慶長10年(1605)、増上寺の大造営が始まりました。その後、表門の三解脱門、大殿(本堂)、方丈、鐘楼等が相次いで建造され、家康より宋版、元版、高麗版の大蔵経の寄進も受けました。

 当時、増上寺は日本全国の浄土宗の宗務を統べる総録所として機能し、関東十八檀林(僧侶の養成所)の筆頭も務め、25万坪もある広さの境内には、48の子院があり、学寮百数十軒が立ち並び、常時3000人もの修行僧がいたといわれています。

 その当時の増上寺は隆盛を極めたといえる状況でした。

芝神明増上寺全図 絵師:一立斎広重(出典:錦絵でたのしむ江戸の名所 (https://www.ndl.go.jp/landmarks/index.html))

二、明治維新の苦難期

 幕府政治の時代が終わり、明治政府に変わると、栄華を極めていた増上寺の運命は一転しました。明治政府は仏教を積極的に取り入れてきた江戸幕府と異なり、神道国教化を目ざした数々の宗教政策を打ち出しました。

1)「神仏分離令」と「大教宣布の詔」

 「神仏分離令」は、明治元年(1868)に打ち出されました。これにより、神道国教化が表明されると共に、古代から続いて来た神仏習合が禁止されました。社僧の還俗、仏教的用語の使用禁止、仏像や梵鐘の取り外しなどが行われ、国のために亡くなった人々を祀る神社が各地で造られ、現在の「靖国神社」もこの時(明治2年(1869年))「東京招魂社」という名で創建されました。

 明治4年(1870)には「大教宣布の詔」が発表され、伊勢神宮を頂点とする、全国の神社を序列化する制度が確立されました。

 明治の時代は増上寺にとって苦難の時代となりました。明治初期には境内地が取り上げられ、明治政府の命令により神官の養成機関が置かれる事態も発生しました。

 『港区のあゆみ』によると、増上寺では、三解脱門楼上の羅漢像が撤去され、木造の大鳥居が建てられ、大殿も教部省に献納されたようです。また、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神という四神を祀る神殿が設置され、明治6年(1873)6月3日に神殿上棟式が催され、増上寺は神殿を祀る礼拝機関となったとのことです。

2)廃仏毀釈による放火事件

 仏教抑圧の宗教政策の下、日本全国では、仏像、仏具の破壊、経文を焼くなどの廃仏毀釈運動が行われました。

 増上寺も例外なく廃仏毀釈の波にさらされました。明治7年(1874)1月1日未明、増上寺は火災に遭い、大講堂、大殿や鐘楼、書籍諸記録が焼失しました。

 その火災は放火によるもので、3人による犯行でした。放火の動機について、寺院に神殿が置かれていることに対する不満があり、「敬神愛国の趣意に相悖(もと)り、却て神威を汚した」と思ったと、犯人は供述していたそうです。

 明治42年(1909)、ようやく再建された大殿でしたが、浮浪者の煮炊きの火による引火が原因で、再び焼失してしまうという不運に見舞われました。

三、昭和の東京大空襲による被害

 大正11年(1922)になって、焼失した大殿はまたも再建され、ほかの堂宇の整備、復興も着々と進展していきました。しかし、その平和な日々は長く続きませんでした。

 その後の太平洋戦争の際に、増上寺は昭和20年(1945)3月10日、5月25日と2度に亘る東京大空襲に見舞われました。その結果、三解脱門と経蔵を除く諸堂宇(大殿、景光殿、聡和殿、開山堂、羅漢堂、五重塔など)の殆どが焼き尽くされ、江戸時代に営造した豪華な徳川家霊廟も、その大半が焼失してしまいました。

 増上寺の中で空襲を免れ、創建当時から残っている唯一の大きな建物は三解脱門のみとなりました。三解脱門は、元和8年(1622)に建立され、今日では、国の重要文化財に指定されており、都内に現存する最古の木造建築とされています。

 同じく空襲を免れた「経蔵」という経典を収め置く堂宇があります。中に収蔵されていた貴重な宋版、元版、高麗版の各大蔵経も焼失することなく残っています。

 最後に余談ですが、西遊記で有名な三蔵法師玄奘の遺骨が増上寺に一時的に安置されていましたが、空襲から逃れるため、埼玉市の慈恩寺に移動され安置されました。

 現在、増上寺の境内面積は最盛期よりかなり縮小したものの、建物の多くは忠実に再建、復元されています。室町時代から幕末、そして明治から大正、昭和へと激動の時代を駆け抜けた増上寺は、未来に向けてこの先どのような歴史を歩むか、注目していきたいと思います。

(注1):菩提寺とは、一家が代々その寺の宗旨に帰依して、先祖の菩提を弔う寺院のこと。

参考文献:港区/デジタル版 『港区のあゆみ』 

(文・一心)