一、海路で天竺に渡った唐の僧侶 義浄

 唐代に中国から天竺に向かった高僧と言えば、まず思い浮かぶのは三蔵法師の玄奘でしょう。実は、玄奘が帰国した26年後、もう一人の僧侶が仏法を求めるため、危険を冒して天竺に向かっていました。彼の名は義浄です。

 義浄(ぎじょう 635〜713)は、中国斉州(現山東省済南市)の出身で、幼くして出家し、15歳の時から法顕や玄奘に憧れを抱き、天竺行を志していました。

 玄奘と違ったのは、義浄は海路を用いて天竺に渡ろうと考えていたことです。

 671年11月、37歳の義浄は番禺港(現広州市南部)から、30数名の僧侶と一緒に出発しようとしていました。しかし、出航する日が近づくにつれ、一人また一人と消えてゆき、最終的には全員が彼のもとを去って行き、義浄は弟子の善行と二人きりで天竺へ渡ることになりました。

 義浄は広州からペルシア船に便乗して天竺に向かい、20日後にシュリーヴィジャヤ王国(スマトラ島)に到着しました。シュリーヴィジャヤ王国は千人もの僧侶がいる大乗仏教の盛んな国でした(注1)。義浄はここに6ヶ月間滞在し、サンスクリット語の文字やその発音を学び、国王の好意によって近くの小国も訪ねました。その間に、弟子の善行は病に倒れ、やむを得ず帰国することとなりました。翌672年12月、義浄は一人で天竺へと出発し、翌673年に到着し、計14年間滞在しました。そのうちの10年間はナーランダ僧院で勉学し、仏教の奥義を極めました。

ナーランダへの旅路(7世紀)(パブリック・ドメイン)
ナーランダ僧院の遺跡(CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)

 687年、義浄はサンスクリットの仏典を多数携えてシュリーヴィジャヤに戻りました。その後、彼はここに滞在し、『南海寄帰内法伝』、『大唐西域求法高僧伝』などを著しました。                     

 そして、次のようなエピソード(注2)もあります。689年、義浄がシュリーヴィジャヤの港で商人の船を訪ね、広州に送る手紙を書いている時に、良い風がきたために、その商人は彼を乗せたまま船を出帆させてしまいました。そのため、義浄は不本意ながらその年の7月にいったん広州に戻ったものの、11月に他の船でシュリーヴィジャヤに引き返し、執筆や翻訳作業を続けました。

 691年、義浄は自ら翻訳した経典と著書の『南海寄帰内法伝』を友人に託して朝廷に献上し、694年、シュリーヴィジャヤを離れ、帰国の途につきました。

 25年の間、義浄は30余国を遊歴し、約400部のサンスクリットの経律論、舎利300粒などを持ち帰りました。

 そして帰国の際には、則天武后が自ら洛陽の上東門外に出迎え、勅によって洛陽の仏授記寺に迎え入れ、玄奘と同じ三蔵の称号を与えました。

 以後、義浄は仏典の漢訳を行いました。訳経は国家事業として洛陽、長安の幾つかの大寺で行われ、西域渡来の僧も訳経に加わり、則天武后自らが序を著してくれました。漢訳された経典は56部230巻に及びました。

 713年、義浄は79歳で入寂しました。

二、『金光明最勝王経』の伝来と国分寺の建立

 義浄が訳出したものの中には、『金光明最勝王経』というとても重要な仏教経典が含まれています。

 『金光明最勝王経』は、四天王を始めとする諸天善神による国家鎮護を説く経典で、10巻から成ります。義浄が長安3年(703)に漢訳したものは、15年後の養老2年(718)に、日本に伝来しました。

 『金光明最勝王経』には、「この経典を読誦すれば四天王などの仏が国家を守る」と記されているため、聖武天皇はこれを写経させ、全国に配布し、読誦させました。また、天平13年(741)2月14日、詔により、国分寺を日本全国に建立させました。国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」と言い、それはまさしく『金光明最勝王経』の信仰に基づき、四天王護国による国家鎮護を期待する寺院でした。

三、『紫紙金字金光明最勝王経』

 聖武天皇の勅を受け、全国の国分寺に納められる「紫紙金字金光明最勝王経」の写経が行われました。

 正倉院文書によると、金字の経典を写経するため、官立の「写金字経所」が設けられ、天平18年(746)10月に、71部710巻の紫紙金字金光明最勝王経が完成したとのことです。 

 「紫紙金字金光明最勝王経」は、紫色の紙に金字で『金光明最勝王経』を書いたものです。聖武天皇の命には金字とあり、紙の色を定めていませんが、当時、金字は紫色の紙に描くものだったということで、紫紙が使われたようです。そして、金粉を膠で溶かしたもので写経し、乾いた後、猪の牙で磨けば、金が酸化して変色しないことから、その手法が使われました。

 奈良国立博物館に所蔵されている「紫紙金字金光明最勝王経」は、備後国国分寺に安置されていた品と伝えられ、当時のまま十巻が完全に残っています。金字は今も黄金の光を放って紫紙に映え、天平写経にふさわしい香気と品格が漂っています。

 三蔵法師に憧れた義浄が海を渡って天竺で求めて来た仏法は、このようにして日本に伝わり、日本社会に大きな影響を与えました。

(注1):義浄の著作『南海寄帰内法伝』による
(注2):生田滋『東南アジアの伝統と発展』世界の歴史13 中央公論新社 1998 
参考文献:仁木英之『海遊記 義浄西征伝』 文藝春秋 2011年9月

(文・一心)