三英戦呂布(パブリック・ドメイン)

 中国の三国時代の物語は、歴史小説『三国志演義』が書かれる以前の時代から人々に愛されていました。唐の詩人・李商隠も宋の文豪・蘇東坡も、自分の作品で、それぞれの時代の人々が三国時代の物語が大好きだったと記しています。
 曹操、司馬懿、劉備、諸葛孔明、孫権、周瑜、魯粛、陸遜などなど、三国時代には智謀を備える人物が数多く存在しました。また、他の時代では珍しい、かなり優秀な謀士、例えば荀彧、程昱、賈詡、龐統なども活躍していました。さらに、武芸だけでなく知略も備える武将、例えば、火攻を献策した黄蓋、七軍を水没させた関羽、逍遥津を震わす張遼、荊州を奪取した呂蒙なども少なくありません。これらの登場人物たちは、拮抗できる智謀を運用して、三国時代ならではの智謀劇を素晴らしく演出したので、数千年後を生きる私たちにも、あの時代の威風堂々の人物たちを偲ばせてくれます。

三顧の礼の絵(北京・頤和園の回廊絵画)(ウィキペディア、パブリック・ドメイン)
赤壁の戦い時詩を詠んでいる曹操(北京・頤和園の回廊絵画)(Shizhao, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 三国時代の物語は、政治や軍事など様々な面で智謀と戦略が表現されており、とても魅力的です。この中でも「智謀の互角」の物語が最も魅力的でしょう。戦の時代を描く他の歴史演義と比べれば、三国時代の智謀の質と量は抜群です。
 例えば、「楚漢戦争」において、多くの智謀が登場しましたが、当時の劉邦は人材の善用や決断力において、相手よりもはるかに優れていました。主帥としての韓信は特段に優秀であり、謀士の張良と陳平も相手よりはるかに賢く、互角の知恵での対抗が足りませんでした。そのため、楚漢戦争の物語より、三国時代の物語に比べてより魅力的に見えます。

 三国時代は戦乱の時代ではありましたが、文学、哲学、芸術、科学、技術などが大きく発展し、春秋戦国時代に次ぐ中国の第二の黄金時代とも言えるでしょう。しかし、なぜ三国時代は多くの知恵を生み出した黄金時代になったのでしょうか。
 この現象には、文化が広範囲に普及するための物質的な条件が必要であり、三国時代においては、この条件は「紙の発明と普及」だったと考えられます。

(一)「製紙技術の発明」と「三国時代」の関係性

 1933年、前漢の宣帝の時代の「麻紙」がロプノールで発見され、最古の紙が前漢時代で登場したことが証明されました。ただし、この紙はクオリティーが低く、書写には適していない可能性が高く、あるいは、学識のある人はそれを使わなかった可能性もあります。
 前漢王朝期の蔡倫は、製紙技術を大幅に改良し、「紙」を文字の媒介としての使用に適したものにしました。『後漢書』はこのことについて次のように書きました。
 「古代には筆記用具として竹簡や絹織物が使われていましたが、竹簡は重く、絹織物は高価すぎました。蔡倫が紙を作り、皇帝に報告したところ、皇帝はこれを賞賛したので、それからは皆が紙を使うようになりました。よって、この紙を『蔡侯紙』と呼ぶようになりました。①」
 この記述からは、少なくとも、「蔡倫は筆記用のために製紙技術を改良した」と「蔡倫の改良によって紙が急速に普及した」の2つの事実が分かります。
 唐王朝期の著書『北堂書鈔』によると、漢の安帝の時代、学者の崔瑗は友人に本を贈ろうとする時、「貧しくて絹を使えませんでしたが、紙に書き写すことができました」と手紙で書きました②。これは本を紙に書き写した例で、蔡倫の製紙技術の改良からわずか17年後のことでした。製紙技術の改良からすぐに、紙が学者たちの好物になり、本の書き写しに使われたことが分かります。

 紙の急速な普及により、本の書き写しが容易になり、書き写された本を読む人も次第に増加しました。読書は、人間に知識と見解を与えてくれて、より賢くしてくれます。三国時代は、紙が文字を伝える媒介として初めて登場し、大きな役割を果たす時代でした。これが、三国時代に「智謀」が高度に発達した重要な理由の一つと考えられます。
 また、武将たちの読書の記録が残っています。たとえば、関羽が『左氏春秋伝』を好んで読んだことが正史に記録されています③。呂蒙が孫権に読書を勧められて、「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし」という物語もあります。これは「紙で書き写された本」であることとも関係しており、三国時代の本が以前よりも普及できたことの証明でもあります。

《天工開物》製紙工程(パブリック・ドメイン)

(二)三国時代の紙の使用に関する記録

 歴史書には、「文字」に関する記録が数多くありますが、これらの文字が書かれた場所「文字の媒介」についての言及はほとんどありません。ただし、次に挙げる数個の例から、三国時代には紙の使用が相当に普及されていたことが分かります。
 建安時代の末期(紀元220年頃)、曹操は一部の部下に月次の報告を命じる時「紙書函封」を要求し④、事前に紙と「函封(封筒)」を支給していたそうです。これは現代における事務用紙の支給と同じです。
 蜀で役人を務めていた陳寿は、30歳を過ぎて晋に戻り、晋王朝期の初期頃に『三国志』を著しました。『三国志』の執筆中、時の皇帝は勅命を出し、紙と筆を持った人を派遣して書き写させました⑤。
 また、晋の左思は十年をかけて書いた『三都賦』が世の中に出ると、人々は競ってこれを書き写したため、『洛陽紙貴』、洛陽の紙の値段が上がったということです⑥。
 これらの例は、三国時代で、文字の媒介としての紙の使用がかなりの程度で普及していたことを証明できます。

(三)文化発展における文字媒介の重要性

 文字媒介は、文化の発展と存続にとって極めて重要です。
 春秋戦国時代の文明の発展は、「竹簡」の応用と普及に密な関係がありました。古代のミケーネ文字は「粘土板」に刻まれていましたが、これは竹簡と同じくらい不便でした。古代インドは「葉」や「樹皮」に文字を書きましたが、「葉」も「樹皮」も文字の媒介としては良質とは言えません。これらの媒介は、文化の発展と継続に多大なマイナスの影響を及ぼしました。
 古代の地中海沿岸地域では、「パピルス」が主な文字の媒介でした。これは高品質の筆記用媒介であり、エジプト、ギリシャ、ローマの輝かしい文明に多大な貢献を果たしました。しかし、この天然資源には限りがあり、紀元の初めに枯渇し、その直後、文化の発展がほぼ停滞する時代に突入したとされます。その時、文字の媒介は「羊皮」が主流でしたが、とても高価で、「聖書」1冊に約200頭の羊が必要でした。
 その後、中国からの製紙技術が、12世紀半ばにスペインに、13世紀にイタリアに伝わりました。ルネサンスを代表する最初の人物ダンテの傑作『神曲』は、イタリアに製紙技術が伝わってから数十年後に書かれました。ルネサンスの発生には多くの理由がありますが、「製紙技術の伝来」とのタイミングがとても近いことがただの偶然とは言えません。文化伝達の媒介としての「紙」の重要性を過小評価することはできません。

まとめ

 三国時代の政治と軍事における互角に現れた高度な智謀は、三国時代から始まった「文化発展の黄金時代」の具現の一つでした。この黄金時代の到来は、製紙技術によって促進された文化の発展と直接関係しています。紙の出現により、文化はより広く普及でき、より賢い人々とより多くの知謀に富んだ人々を生み出すことが可能になりました。三国時代の文化は、「紙」という文化伝達の媒介が普及してから初めて咲いた花と言えます。
 このような三国時代の特徴が、三国時代の登場人物たちが政治や軍事においてとても豊かな知恵を発揮し、三国時代の物語を魅力的なものにしているのです。これも、『三国志演義』が他の歴史演義よりも面白く、『四大古典名著』の一つとして長らく人々に愛される大きな理由の一つなのです。


①中国語原文:自古書契多編以竹簡,其用縑帛者謂之為紙。縑貴而簡重,並不便於人。倫乃造意,用樹膚、麻頭及敝布、魚網以為紙。元興元年奏上之,帝善其能,自是莫不從用焉,故天下咸稱「蔡侯紙」。(『後漢書・宦者列伝』より)
②中国語原文:崔瑗與葛元甫書云:「今遣送許子十卷,貧不及素,但以紙耳。」(『北堂書鈔卷第一百四<紙四十六>』より)
③中国語原文:江表傳云:羽好左氏傳,諷誦略皆上口。(『三国志・蜀書六<関羽伝>』より)
④『魏武帝集・令<掾屬進得失令>』より
⑤中国語原文:陳壽卒,迢下河南尹華澹,遣吏齎紙就壽門下,寫取『三國志』。(『王隠晉書・卷七<陳寿>』より)
⑥『晉書・列伝第六十二<文苑・左思>』より

(翻訳・宴楽)