上野若元筆『豊干寒山拾得図』 中央が豊干、向かって左が寒山、右が拾得(パブリック・ドメイン)

一、風狂僧 寒山と拾得

 唐時代の台州(浙江省)にある天台山の国清寺に、寒山と拾得という僧侶がいました。

 伝承によると、寒山(かんざん 生没年不詳)は、痩せこけて、樺の皮をかぶり、大きな木靴を履いていた奇矯な人だったそうです。寒山と言う名は、国清寺近くの寒い山の洞窟に住んでいたため、寒山と称したといいます。拾得(じっとく 生没年不詳)は孤児で国清寺の豊干禅師に拾われ、養われたことから、拾得という名前が付けられたそうです。

 寒山と拾得は寺の食事係となって働き、残飯や野菜クズを食べ、乞食同然の生活をしていました。

 困窮した生活をしていましたが、二人は仲が良く、いつも子供のように遊び回っていて、時には奇声や罵声を上げ、時に大声で歌ったり廊下を悠々と歩いたりして、怒られても全く気にせず大声で笑い飛ばしていました。そんな奇妙な行動を取る二人は、風狂僧と呼ばれていました。

 寒山と拾得の奇怪な動作と表情、そして、弊衣蓬髪な格好は、禅画の好題材として古くからよく用いられてきました。

可翁筆「寒山図」(国宝)(パブリック・ドメイン)
伝周文筆「寒山拾得図」(一部)(重要文化財)(パブリック・ドメイン)

 中でも、中国元末の禅宗画家因達羅の「寒山拾得図」、南北朝時代の禅宗の画僧可翁(かおう)が描いた水墨画「寒山図」や、周文が描いた「寒山拾得図」が有名です。

 「寒山拾得図」に描かれた二人は、髪はボサボサで、衣服もボロボロ、そして顔中が垢にまみれており、いつもゲラゲラと笑っている姿は、一度見たら忘れられないでしょう。

 ずば抜けて奇行に富んだ二人ですが、ただものではありません。彼らは仏教の哲理に通じ、詩も得意で、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、普賢菩薩(ふげんぼさつ)の生まれ変わりだと言い伝えられています。

二、寒山と拾得の大智

 寒山と拾得は多くの詩を作ったといいますが、それらすべては天台山の木石に書き散らしたとのことです。彼らの詩を集めた『寒山詩集』の中には、寒山のものが約三百首、拾得のものが約五十首収められ、自然や隠遁を楽しむ歌のほか、俗世や偽善的な僧を批判するものもあり、多彩な内容が含まれています。

 また、寒山と拾得の会話が記録された『忍耐歌』というものがあります。最も人口に膾炙しているのは以下の内容です。

 寒山は拾得に聞く、「世間が僕を中傷し、いじめ、侮辱し、笑いものにし、けなし、安売りし、悪者にし、騙したら、僕はどう対処すればいいか。」

 拾得は答える、「ただ耐えろ、譲れ、放っておけ、避けろ、我慢しろ、敬え、気にするな、あと数年経てば、彼に会って見ろ。」

 世俗を超越した寛容さと忍耐強さ、そして、世間の何もかもを知り尽くして悟りを開いた大智が隠されているこの言葉が、千年経った今でも広く伝えられています。

三、日本の三大文豪が描く『寒山拾得』

1)森鴎外の小説 『寒山拾得』

 1916年、森鴎外の短編小説『寒山拾得』が発表されました。あらすじは以下です。

 「台州知事に赴任する予定の閭丘 胤(りょきゅう いん)は頭痛に悩まされていた。そんな彼の元に乞食坊主が訪れ、呪(まじな)いで見事に頭痛を治してくれた。この男は台州の天台山国清寺の僧侶で、台州に赴任するならば、文殊菩薩と普賢菩薩の化身である寒山と拾得に会えば、と言い残した。

 台州に到着した閭丘は、国清寺を目指し、実際に二人と対面すると、みすぼらしい身なりをした二人の小男が火に当たっているのを目の当たりにした。閭丘は聖人に接する意で拝礼をしたが、寒山と拾得は腹の底からこみ上げて来るような笑い声を出し、その場から逃げ去ってしまった。」

 森鴎外は、この作品について書いた随筆『寒山拾得縁起』の中で、子供にしてあげた寒山と拾得の話を、一冊の参考書も見ずにそのまま書いたものだと述べています。綿密な調査によって書かれた他の歴史小説とは一線を画したとても面白い作品でした。

 森鴎外の『寒山拾得』は、青空文庫で公開されているので、ご興味のある方は是非一度お読みください。

2)芥川龍之介の小品 『寒山拾得』

 芥川龍之介の小説『寒山拾得』は、1300ほどの文字からなる、10分もあれば読める作品です。

 「『自分』が夢中になっているロシア文学のすごさを語りたく、久しぶりに漱石先生を訪ねた。漱石先生は「護国寺で運慶が彫刻をした仁王を見てきた」と答えると、この忙しい世の中、運慶なんかどうでも好いと少し呆れ気味だった。

 帰り道の板橋駅で、『自分』は妙な男が二人歩いているのを見た。髪も髭ものび放題で、古怪な顔つきをしている寒山拾得が見えた。

 寒山拾得の神秘性に惹かれ、結局、読みかけのロシア小説も頭に入らなくなり、今見た寒山拾得の怪しげな姿が懐かしくなった。」

 メルヘンな小説でした。

 芥川龍之介の小品『寒山拾得』も青空文庫にて公開されています。

3)井伏鱒二の小説 『寒山拾得』

 「旅先で偶然に学生時代の級友の佐竹に会った。佐竹はあやしげな旅絵師となっていた。

 ある町に泊まり、部屋の掛け軸や襖の絵を模写して、次の町でその絵を売り歩いて旅を続けているというのだ。

 夜になって絵を売りに出かけた佐竹から、電話で呼び出され、二人は絵の代金で酒を飲み、酔っ払い、町を彷徨う。

 そして、売れ残った寒山拾得の絵をポストに貼り付け、拾得の笑いに近づくべく、競ってげらげらげら、げらげらと笑い合った。」

 阿呆なことを真剣にやっている二人の話でした。

四、寒山寺にまつわる秘話

 寒山と拾得は多くの水墨画や小説の題材として描かれ、日本人に親しまれてきましたが、寒山と拾得の日本との縁はそれだけではありません。

 よく知られる中国蘇州にある寒山寺は、その名も、寒山と拾得がこの地で草庵を結んだという伝承に因んだものだとされています。寒山寺は中唐の詩人である張継(ちょうけい)の七言絶句「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」でも詠まれ、日本人にも古くから馴染み深い詩となっています。

原文       書き下し文

月落烏啼霜満天  月落ち 烏啼きて 霜天に満つ

江楓漁火対愁眠  江楓 漁火 愁眠に対す

姑蘇城外寒山寺  姑蘇城外 寒山寺

夜半鐘聲到客船  夜半の鐘声 客船に到る

楓橋夜泊(ネットより)

 度重なる戦火や火災に遭い、寒山寺の現在の建物は、清の時代に再建されたもので、張継の詩に詠まれた唐の時代の寒山寺の鐘は、とうの昔に失われてしまいました。明の嘉靖年間(1522年 – 1566年)に、2代目の鐘が鋳造されましたが、それも失われ、その後、寒山寺では3代目の2つの鐘が用いられています。そのいずれの鐘も、約100年前の清朝末期のもので、一つは1906年に中国で製造された大きい鐘で、もう一つは、日本で鋳造され、1914年に寒山寺に寄贈されたものです。その鐘には、日本初代内閣総理大臣伊藤博文による銘文が鋳されています。

 寒山と拾得の話を見て、日本と中国との繋がりが古くて長いことに驚き感心しました。

 ちなみに、寒山が亡くなった後、拾得は日本に渡り、全力で法を説いたとの言い伝えが残っています。

 真実はどうなのか、ますます興味が湧いてきました。

(文・一心)