1976年7月28日午前3時42分53秒。マグニチュード7.8の大地震が中国・河北省唐山市を襲い、人口100万人の唐山市を一瞬で平らにしてしまいます。中国共産党政府が発表した公式推計によると、激しい揺れの恐怖の23秒間で、少なくとも1479万平方メートルの住宅が破壊され、530万戸の家屋が倒壊し、24万2769人の人が死亡し、16万4851人が負傷したのです。

 しかし、このような悲惨な状況においても、中共は依然として人間性を抹殺し、いわゆる政治闘争を主張し、市民の命を軽視するだけでなく、廃墟の街で人を殺していました。

 今回は、あの唐山大地震の知られざる、振り返るに忍びない過去を、皆さんと一緒に見てみましょう。

震災回避と援助拒否

 唐山地震が起きたのは、文化大革命の末期、毛沢東が重病にかかり、中国の政治情勢が極めて不安定な時期でした。突然の大災害で、当時の救援状況はどのようなものだったのでしょうか?
 結論から言いますと、唐山大地震の後、『人命救助』、人の命を救うことは、『災害救助』の主要な方向にはなっていなく、市民にはすぐに災害のことが知らされなかったのです。
 中共の機関紙『人民日報』は地震発生の翌日、「河北省唐山市、豊南一帯に強い地震が発生 被災地の人々は、毛主席の革命路線に導かれ、地震と災害との闘いで人は天を打ち勝つという革命精神を継承し、地震と対抗し、災害を救助」という長い見出しで、新華社通信の記事を掲載しました。
 400強の文字の記事の中で、地震の発生については序文で十数文字が要約されただけで、家屋の倒壊や死者数など、最も注目される被害状況については、一言も触れられず、記事本文では「震源地は程度差のある被害を受けた」という一文が読み飛ばされただけでした。その代わり、「人間の力は必ず大自然に打ち勝つことができる」「人民は災難と闘う」「毛主席、中共党中央委員会及び各級指導者は被災地の人民を気遣い、被災地の人民を率いて災難と闘い、救援に多大な努力を払う」などのことが本文のところどころにありました。
 このようにして、唐山地震の被害状況は未知のままになりました。それから3年以上経った、1979年11月の中国地震学会設立総会で、初めて唐山地震の正確な死者数が公表されたのです。会議が閉会した翌日の11月23日、『人民日報』は4面の隅に、会議の記事を掲載し、「唐山地震で24万人以上が死亡」という見出しをつけました。

 『人民日報』は、唐山大地震発生の当日から、毛沢東思想の最も重要な一環「自力更生」の重要性を強調していました。1976年8月14日、『人民日報』は一面コラムで、再び地震の話題で「自力更生」の精神を強調し、「すべての自然災害と同様、地震そのものは悪いことではある」、「しかし、ある条件下では、悪いことが良いことに変わり、自立して努力することを学ぶことができる」と述べました。
 1957年に毛沢東が発動した「反右派闘争(はんうはとうそう)」の時代、鄧小平が批判されたのは、経済計画において外国の技術を輸入しすぎて、「自力更生」を軽視していたからでした。当時、国家イデオロギーを担当していた、中央委員会政治局委員の姚文元は、このように言いました。
 「災害救助で鄧小平批判から目を離してはいけない。唐山地震で死んだのはたかが数十万人。鄧小平批判のは8億の国民の問題なんだぞ」
 こればかりか、地震発生後、アメリカ、イギリス、日本、国連などは、緊急援助や医療物資の提供を申し出たのですが、中共はこれらの国際救援をすべて拒否しました。1976年7月30日、中共政府は公式発表を行い、「中国人民は自ら困難を克服し、災害救援のための闘争を遂行することを決意している」と海外からの援助を拒否することを宣言しました。当時の中国国務院総理の華国鋒(か・こくほう)は、中央委員会の弔問団を率いて被災地のテントに入り、被災者たちに次のように語りました。
 「あの外人たちは、中国に来て、私たちを援助したがっているんだけど、われわれ中国は、他の人(他国)の介入が要らん!他人(外国)の支援などは要らん!」

被災者のうめき声の中、解放軍が2分の硬貨を救出

 中共の公式宣伝によれば、唐山地震発生から8時間後、最初の解放軍は唐山に入り、その後数日間で14万人の部隊が次々と到着したとのことです。
 しかし、実際には、軍隊は最も初歩的な道具や兵士の手で亜廃墟を掘っていたのです。鉄とコンクリートの瓦礫の中を両手で掘る効果は言うまでもなく、政治的な見せ物にすぎませんでした。さらに、唐山の空港の通信、レーダー、気象、ナビ施設は甚大な被害を受け、負傷者や物資の輸送、情報の伝達もだいぶ遅れていました。
 中共中央軍事委員會の機關報『解放軍報』紙は、このような話を報じたそうです。
 某銀行の金庫が埋まり、解放軍某部が発掘を担当しました。銀行は、合計「91万515元9分」の現金が瓦礫の下に埋まっていると申告しました。解放軍がほとんどの現金を掘り出しましたが、「2分」が不足していたのです。銀行は、これは許容範囲内の誤差で、その2分を不要としましたが、兵士たちは、「財務清算は誤差を許容できるかもしれないが、国民に奉仕するという我々のイデオロギーは、わずかな誤差も許容できない!」と言いました。すると解放軍の兵士たちは、暗闇の中を手探りで進み、レンガの割れ目や泥をほじくり返し、泥にまみれた最後の2分玉を見つけました。
 今から見るととんでもない事でしたが、当時の『解放軍報』はこれを英雄的事績として大々的に報道していたそうです。鉄筋コンクリートの瓦礫の下で、無数の人が救助を待っている中で、「災害救助」の名目で出動した解放軍が、2分玉のために一所懸命に探していました。解放軍部隊が2分玉を探すために、レンガの割れ目を細かくほじくっている間、すぐそばでは、瓦礫の下で「たすけて」とうめく人がどれほどいたのでしょうか。そして、ようやく2分玉を見つけた時、解放軍の部隊全員が2分玉の出土で歓声を上げたとき、そのすぐそばには、二度と声を出せず、息を引き留めた人もいたのではないでしょうか。

救出現場で解放軍が殺人を

 「孟徳」と名乗るセルフメディアマンは、唐山地震を体験したときに見聞きしたことを振り返る記事をネットで発表しました。
 唐山市高家荘出身の孟徳は、地震発生当日の午後に唐山市に駆けつけました。市内に入ると、彼が最初に目にしたのは「1キロに及ぶ死体の壁」でした。唐山の中心部に向かって歩けば歩くほど、「市内に入る道はすべて死体で覆われていた。見渡す限り、5~6万人近くの死体が道路や道端に散乱していた」と彼は述べました。

 この悲惨な光景を振り返った孟徳はこのように語りました。「中共は唐山地震で24万人が死亡したと嘘をついているが、実際は52万人が死亡したのだ。地方政府には記録があるし、当時、政府機関に勤めていた私の親戚は、死者数を教えてくれた。でも、当時の唐山の人口は100万人しかいなかったんだよ。その半数以上が亡くなったんだよ」

 孟徳は何人もの兵士が死体を処理し、毒のある気体で死んでいくのを目撃したのです。「多くの兵士はこのような仕事をしたくなかったが、銃を持った中共の士官に強制されてしまっていた。どうしてもやりたくないと言って、鉄のフックを置いていこうとする兵士がいったけど、士官がその兵士を銃殺したんだ」

 地震の救助現場で、中共軍は人を殺したのです。
 このようなことは新聞や雑誌では決して報道されませんが、幸いなことに、人間の良心は、真実をいつまでも隠すことなく、数十年もたった今は、世間に暴露することになります。孟徳の記事は、中共の虚偽のプロパガンダを壊し、震災における中共の残酷さを浮き彫りにしました。

 突然の惨状と荒廃をもたらす唐山地震。自発的に救命活動に当たる人がいた中で、災害を利用して金儲けようとする人もいました。
 ある男が、次々と死体から腕時計を剥ぎ取り、自分の腕いっぱいにつけて、解放軍兵士に見つかりました。兵士は男に、腕時計を外してその場から離れようと命じました。何もされないと思った男は腕時計を外さず、兵士と口論になりました。そして、「男が振り向くと、兵士は手に持っていた槍で彼を刺し貫いた」と、孟徳は目撃談を記事に書きました。
 その光景は、1989年の六四天安門事件に似ていました。北京の人々も「人民の兵士は人民のために」、「軍人と人民は愛し合っている」と思い込み、戒厳令が布告された6月4日の未明でも、多くの大学生や一般人が中共の軍隊にまだ幻想を抱いていたのです。しかし中共は虐殺を命じて、「人民の兵士」は天安門を血の海にし、世界中に激震を走らせました。
 「これらの兵士たちは中共に操られていて、人間性が一片もない。私はちっとも疑わない。人を殺せと言われれば人を殺し、戦車で轢き潰せと言われれば戦車で轢き潰す。このようなことができるのは、中共に洗脳された兵士だけだ」と、孟徳氏は語りました。

 孟徳は、銀行に関するもう一つの人災を明らかにしました。当時、倒壊した銀行のビルでの救助活動の中、一部の無法者が白昼堂々とビルに侵入して、金を強奪したのです。混乱の最中、中共の軍隊は銀行ビルを包囲し、「救援でも強盗でも、今すぐビルから出て行け」とビル内の人々に3回も警告放送を流しました。中にいる人々はまだ反応できず、ほとんどの人がまだ建物から出ていなかったのですが、「8丁の機関銃が乱射をはじめ、建物内で100人以上が殺された」と、孟徳が目撃していました。
 これらの死傷者は、中共が発表した「24万人」という死傷者数にはカウントされません。つまり、唐山地震で一体どれぐらいの人が死亡したのかは、いまだに謎のままなのです。

実際の死傷者数は今もなお謎のまま

 海外の民主活動家・魏京生(ぎ・きょうせい)氏は、「唐山地震で一体何人が死んだのか?中共が発表した人数の倍であろう」と文章で綴りました。実は、中国国家地震局は「大地震発生の3日前に中央政府に予告していた」と、局長が密かに自分の父に話しているのを、魏京生氏はその耳で聞こえたそうです。中共の指導者だった「四人組」の一人・王洪文は、火災を防ぐために発電所の閉鎖を命じたほどでした。しかし、当時の政治情勢下、中共の上層部は「革命路線の歪曲」と「闘争の総方向の逸脱」を恐れ、地震警報を国民に伝えることを控えたのです。

 魏京生氏が唐山地震で養子にした少年は、何年も経ってから、行方不明の妹を見つけました。その妹は魏京生氏に語りました。
 「1976年7月28日未明、自分たちがいた鉱山の電気はとっくに止まっており、リフトに電力が供給されないため、労働者全員が坑道の暗闇に埋もれ、廃坑道から掘り出されるまで長い時間がかかりました。」
 「年月を経た今も隠されている、このような血まみれた事実が、あとどれぐらいあるのでしょうか。これらの犠牲者は、天災の中の人災ではないのでしょうか?」

 魏京生氏は次のようにコメントしました。
 「『国民の命なんかより、権力を維持するための政治闘争こそが最重要事項』。これこそが、唐山大地震が教えてくれた、中国共産党の思考パターンなのだ。」

(文・賈小凡/翻訳・清水小桐)