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 71の歳で中国・山西省綿山の抱腹寺で成佛した「志超和尚」は、中国人で初めて成佛した人物と言われています。「空王古佛」の再来と伝えられる彼の真身佛像は、現在は云峰寺にあります。「抱腹寺」という名前は唐の太宗・李世民によって付けられたもので、今は「雲峰寺」と呼ばれています。

佛の心を天より賜わり修行に励む

 志超和尚は、中国・南北朝時代の陝西馮翊田氏の一族に生まれ、俗名は田善友です。佛門に入りたいと家族に何度も告げる程、幼い頃から佛教に興味を持っていました。しかし、家族はそれを許さず、彼に知らせないまま彼の婚約を決めました。これを知った志超は、すぐ山野に逃げてしまったのです。しかし、家族総動員で志超を探したので、すぐに志超は見つかり家に連れ戻され、結婚式が強行されました。

 結婚式の日の夜、志超は新婦に真剣に佛教を説きました。新婦は、志超の佛教に対する真心に感動し涙を流し、志超とは別居し、名目上だけの夫婦になることに同意しました。以来、志超は妻と共に夜を過ごすことなく、一人で座禅をしていました。

 27歳の時、志超はようやく出家を許されたので、并州(現在の山西省大部)にある開化寺の慧瓚禅師の門下に弟子入りしました。

 初めは志超を弟子にするつもりがなかった慧瓚は、最初の頃、試練を与えるため志超を雑用係として働かせていました。ところが、志超は飽きることはなく、毎朝早起きして、夜遅くまで働いていました。また、辛い仕事があると、必ず率先して行っていました。慧瓚は、これらの試練を通じて、志超が自己を律し、知恵があり、辛抱強く耐えることができる人だと知り、志超の弟子入りを許しました。

 弟子入り後、志超はしっかりと佛教経典を学びました。その後、故郷に戻り、ある山を拠点として修行を続けました。志超は山の中に禅林を創設し、早晩、禅修を行いました。そして、志超のことを聞いた各地の優秀な人々が、遠方からも訪れました。

敬虔に法を護り、乱世の中で人を済度

 隋の大業元年(紀元605年)、隋の煬帝は寺院を封鎖し、僧侶に結集して出かけないよう命じました。これを知った志超は非常に焦り、佛教を守るため朝廷に上書①しました。志超は袈裟を着て郡城を訪れ、法執行官に会い、自分の意見を伝えようとしましたが、法執行官は志超の意見に耳を貸しませんでした。志超は、佛法を守る道の至るところで障害にぶつかりましたが諦めず、一気に都へ向かい、煬帝から呈示を承ることを期待して、自分の意見を煬帝の内史に伝えました。

 隋の末期、戦争が起こり、盗賊が横行し、多くの人々が困窮していました。そんな中、弟子たちを集めて佛法を学んでいた志超のところには、少しだけ食糧が残っていました。盗賊に襲われるのを恐れた弟子たちが、食糧を持って逃げようとしましたが、志超は「みだりに動いてはいけない。修練は中途半端にしてはいけない!」とその弟子たちを戒めました。師の戒めに心を打たれた弟子たちは、心を落ち着かせ、修練に励みました。

 そんなある夜、突然火事が起こり、鋼製の刀で武装した盗賊たちが、扉を破って志超たちが座禅している部屋に入ってきました。しかし、志超と弟子たちは、誰一人も微動だにせずじっと座禅したままでした。その様子を見た盗賊たちは、志超たちの修練への決意に感動し、皆地面に伏して謝罪し、志超に帰依しました。志超は、個々の状況を鑑み、一人一人の資質に応じた指導をしました。盗賊たちも心の底から志超を尊敬し、心を佛に向け、熱心に佛法を修め、過去の罪を償おうとしました。

天象に順応し、法を広げ唐を助ける

 唐の高祖・李淵が、太原で挙兵すると、国中でこれに呼応しました。それを知り「天象が変わり、李家が天下を獲る」と悟った志超は、天象に順応し李淵を支持しました。志超が佛法を広めるために、弟子たちを連れて晋陽(現在の山西省太原市)に向かうと、数百人の弟子が集まりました。弟子たちは皆、戒律を遵守し、整然とした秩序ある行動で佛法の威徳を示しました。地元の人々も皆、僧侶たちを倣ったので、当時の晋陽は、夜、戸締まりをしなくても安心して寝ることができました。

 その後、高祖が率いる唐は戦乱を鎮め、平和をもたらしました。志超は二十数名の弟子たちを連れて、都に向かい祝辞を述べました。高祖は志超を仙人のように扱い、太極殿に招き入れ、多大な敬意を表しました。しかし、安逸を望まない志超は、武徳五年(紀元622年)皇帝のもとを離れ、現在の山西省介休市の南西20kmに位置する綿山に移住しました。

 綿山にある「抱腹岩」は周囲に広く知られています。深い谷と険しい峰で構成された綿山は、まるで仙境のようです。山中に多くの美しい岸壁や絶壁があるだけでなく、作物の成長に適した気候が整っているこの場所は、澄んだ泉や多くの木々をも見ることができます。ここに住み美しい峰々を眺めれば、きっと心を癒すことができるでしょう。

志超にまつわる数々の不思議な物語

 武徳七年(紀元624年)、志超は弟子たちと共にこの「抱腹岩」で修行を始めました。当時、100人近くの弟子がいましたが、持っていた食糧は合わせて6石(約900kg)の小麦だけでした。当初は1日5斗(約75kg)の小麦を挽いて食べていました。しかし、春から夏にかけて、大部分の麦が食べつくされ、その後、1日に挽く小麦が2斗(約30kg)だけになりました。ところが、不思議なことに、貯蔵されていた小麦は、いつになっても食べきることがありませんでした。山の湧き水も、人が多くなると自然と多く湧き出し、人が少なくなると自然と水量が減りました。しかも、志超が弟子たちを呼び集めよう思うと、誰も鳴らしていないのに、鐘の音が山の中に響き渡りました。

 志超の生涯には、このような不思議な物語がたくさんありますが、最も有名なものをご紹介します。

 貞観十四年(紀元640年)、至る所が激しい干ばつに見舞われましたが、介休一帯だけは順調な天気でした。介休が干ばつから免れられたのは、志超和尚のおかげだと言われるようになりました。太宗も自ら綿山を訪れ、志超を訪問し、雨乞いをするよう依頼しました。志超は、炊事をしている弟子に、米のとぎ汁を南西の方角にまき散らすよう命じました。すると不思議な事に、長安辺りで雨が降り始め、干ばつは解消されました。人々は皆とても喜び、救ってくれた志超にとても感謝しました。これを発端に志超和尚は「綿山の生き佛」とも呼ばれるようになりました。

入寂の時、「空王古佛」の文字が空に浮かぶ

 干ばつが収まると間もなく、志超は重い病に侵されました。自らの寿命が尽きるのを予知した志超は、さらに修煉に励みました。貞観十五年(紀元641年)3月11日、志超は71歳で入寂(にゅうじゃく)しました。

 太宗は大臣たちを率いて、志超和尚を訪問しようと綿山に行きましたが、既に志超は入寂した後でした。志超の弟子である銀空が、抱腹岩で太宗を迎え、師父の志超が入寂されたことを告げました。太宗は「今回の旅は、佛に会えなかった」と志超に会うことが叶わなかったことを嘆き、長いため息をつきました。

 するとその途端、空には「空・王・古・佛」の四文字と、志超和尚の姿の輪郭が浮かび上がってきました。これを目の当たりにした唐太宗は、志超和尚を「空王佛②」として称えました。

 入寂後、志超和尚の遺体は何の処理もされていませんが、長い時間を経ても全く腐敗しなかったそうです。そのため、志超和尚の弟子たちは、志超和尚の遺体を泥土で細心に包み、立像を作り、拝んでいました。肉身の遺体で作られた像のため、今でもはっきりとその生き生きとして表情が見られます。その志超和尚の立像は「包骨真身像」と呼ばれ、今でも大変貴重なものとされ続けています。

 それから1300年以上の時が経ちましたが、賢明な皇帝と徳の高い高僧が共に創り出した文化は、その後世の人類に多大な恩恵をもたらしました。太宗が佛の真身を祀る「抱腹寺」の建立を命じて以来、この地は「空王佛」へお参りをする人々で賑わい、独特の民俗文化が残されました。そして、綿山は道教の名山にもなりました。唐太宗が佛を敬い、民衆のために雨乞いをした話は、空王佛の神聖なる足跡とともに現代に伝えられ、後世をも教化していくのでしょう。

注:
①上書(じょうしょ)とは、臣下から主君・上官に対して意見を記した文書を提出すること。
②空王佛:佛教用語、過去世千佛の一つ。

(翻訳・清水小桐)