(看中国合成写真)

 昔、中国には、このような医者さんがいました。彼は、中国各地を訪ね歩き、その地の薬草や薬物を試食し、多くの薬典の誤りを正し、中国医学の百科事典と称される『本草綱目』を完成させました。現代においても多くの健康食品が、広告に彼の名前を用いて宣伝しています。その医者は、世界中に名を馳せる名医・李時珍(り・じちん)です。

 李時珍(1518年-1593年)は、黄州府蘄州(現在の湖北省黄岡市蘄春県蘄州鎮瓦硝壩村)出身で、明王朝期を生きる優れた医学者であり、扁鵲(へんじゃく)、華陀(か・だ)、張仲景(ちょう・ちゅうけい)と並ぶ古代中国四大名医の一人として知られています。李時珍の著書『本草綱目』は、ラテン語、英語、日本語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、韓国語に翻訳され、世界中で相当高い知名度を得て、後世の医学の研究及び発展に大きな影響を与えました。

儒学を捨てて医術に励む

 李時珍は、祖父も父親も医者という医学者の家に生まれました。彼は幼い頃から医学が好きでしたが、父親は彼が科挙を受け、官職の道に進むことを望んでいました。

 しかし、李時珍は20歳の時に結核にかかり、咳と熱が止まらず、命の危機に瀕しました。幸い、父親の診断と丁寧な治療で、李時珍は回復しましたが、それ以来彼は、さらに官職の道に進むのを嫌うようになり、「患者の苦しみを和らげる良い医者になりたい」と、医学の道に進む決意を父親に告げました。そんな息子の決意を目の当たりにして、父親も納得せざるを得ませんでした。

名利に淡泊、功名を求めず

 李時珍は診療する時、先人の経験を重視するだけでなく、実践的な練習にも力を入れていました。李時珍の医術の向上とともに、彼の名声も次第に蘄州一帯に広まっていました。

 ある時、当時の蘄州の領主であった富順王・朱厚焜は、自分の息子の病気を治療するために李時珍を王府に招き入れました。朱厚焜の息子は、灯花や生米、泥を好んで食べていました。李時珍はこの症状から、朱厚焜の息子を「虫の病気」と診断し、殺虫剤でこの奇病を治しました。

 しばらく経つと、今度は武昌の皇族・楚王が、李時珍を御用達の医師として招聘しました。李時珍が多くの病気を治療したので、楚王は多額の報酬を与えようとしましたが、李時珍はことごとく拒否しました。その後、李時珍は次々と王府の「奉祠正」や「太医院判」に任命され、推薦により明朝における医学の最高機関であった「太医院」の職を得て北京に赴きましたが、中央の役人として勤めることは性に合っていなかったらしく、わずか1年で職を辞し、帰郷し再び地元で医業を始めたそうです。李時珍が、名利にこだわらず、患者のことだけを考えていた良医だったことが分かります。

本草学の大作『本草綱目』

 李時珍は王府で 「奉祠正」として働いていた時、多くの医学文献を読みました。そこで、古くからある『神農本草経』に多くの問題があることに気づき、その改訂を決意しました。李時珍は旅に出て、どんなにつらい環境でも、山野の奥深くまで入り、現地で実物の薬物と本を照合し、見極めていました。北から南まで、李時珍は2万km以上の道を走破し、20年以上の歳月を掛け『本草綱目』という医学の最高傑作を完成させました。

 全52巻の『本草綱目』には、1,892種類の薬物が収録されており、そのうち374種は『神農本草経』に未記載の新薬です。各薬剤の名称、性質、用途、調製方法などを詳しく解説している他、1,100枚以上の処方箋と1,160枚の薬形図が添付されており、極めて豊富な内容を成しています。これは中国の薬学の貴重な遺産となり、日本などの周辺諸国のみならず、ヨーロッパ語にも訳されて、世界の薬物学・本草学に大きな影響を与えました。

 患者のため、医学の発展のためなら、どんな困難でも乗り越えてきた李時珍。その功績とめげない精神は、これからも世界中の人々に謳われ続けていくのでしょう。

(文・美慧/翻訳・清水小桐)