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 「修身、斉家、治国、平天下」(しゅうしん、せいか、ちこく、へいてんか)は、儒教経典「礼記―大学」(注1)の一節から来た言葉です。それは即ち、天下を治めるには、まず自分の行いを正し、次に家庭を斉え、国家を治め、そして天下を平和にすべきだ、と言う意味です。それは儒教における最も基本的な実践倫理で、男子一生の目的とされるものと見なされていました。

孔子聖跡図之杏壇礼楽(パブリック・ドメイン)

 儒教では、「修身、斉家、治国、平天下」を提唱しますが、その中でも「修身」を第一に考えており、つまり、天下を治めるには、そのプロセスとして必ず「前から順番に行われなくてはならない」ことを強調します。古代の人々は、君子が何かを成し遂げようと思えば、まず身の回りの小さなことから、自らの修養を高めなければならないと考えていました。

 これにまつわる以下のようなエピソードがあります。

 後漢の名士である陳蕃(ちん はん、99〜168年)(注2)は、若い頃から天下への志を有し、いつも家に閉じこもり勉強に励んでいました。彼が15歳のある日、父親の友人が訪ねてきて、彼の部屋が散乱し、庭が荒れ果てているのを見て、「どうして清掃しないのか」と聞くと、 陳蕃は鼻高々に「一人前の男子は、世に出るとき、当然、天下を掃除するのです。部屋の掃除なんかはどうでも良いでしょう」と言いました。それを聞いた父親の友人は笑い、「自分の部屋もきれいに清掃できなれば、どうして世の中をきれいに掃除できるのか」と言い返しました。 陳蕃はその言葉の真意を悟り、その後、身の回りの細かなことから言動を正し、自らを磨き、ついに後漢の著名な政治家となりました。

 「部屋の掃除ができなければ、どうして世の中を掃除することができるだろうか」と言うのは、自分自身を修められなければ、幸せな家庭を築くことはできない、幸せな家庭を築けなければ、地域にも社会にも安定は繋がらない、そうなった場合、国も平和にならないという考え方です。

 反対に、人々が身を修め、自分の間違った考えや、自分の間違った行動を常に修正していくことができれば、夫婦、親、兄弟姉妹といった家族をはじめ、自分の身近な人々にも良い影響を与えることができ、家庭を斉えることが出来るのです。それはやがて、地域にも、そして社会全体にも良い影響を与え、「国を治める」ということにも繋がります。

 儒教の考えでは、何よりもまず自分自身を変えることから始めます。自分を変えることができたら、自然と身辺の人々にも良い影響を与え、そして、国全体が繁栄し、争いや奪い合いがなくなり、平和な世の中を築くことができます。「修身、斉家、治国、平天下」は、正しく自分の身を修めることがすべての物事を成し遂げる根幹であることを唱えているのです。

 細かなこと、身の回りから自らの言動を慎み、常に身を修め、心を修めていくのはとても大切なことです。なぜならば、それは天下の平和に繋がるからです。それは政治家にも、企業家にも、我々一般人にも、全ての人に通用するものです。

 注1:儒教の最も基本的な経典である「経書」の一つで、『周礼』『儀礼』と合わせて「三礼」と称される。全49篇。五経の一である。49編となる。
 注2:後漢の政治家。字は仲挙。汝南郡平輿県の人。『後漢書』に伝がある。

(文・minghui.orgより/編訳・一心)