清院本『清明上河図』一部 ( パブリック・ドメイン)

 秋になると、徐々に気温が下がり、寒くなるにつれて空気もどんどん乾燥するので、火災への警戒心を一層高める必要があります。この時期、日本では「カチン!カチン!火の用心!」と、拍子木の高い音と夜回りさんの掛け声が夜の街に響き、火災への注意喚起を促してくれます。

 中国時代劇をよく観る人は、ドラマの中で灯りを手に「天干物燥、小心火燭(乾燥する天気に、火のもとに注意)」と言いながら、夜の街を歩いている演者を目にした事はありませんか?

 古代中国の夜回りさんは、夜の時刻を知らせる他、街の防火状況をチェックし、住民に火の用心も呼び掛けていました。ですが、万が一火災が発生してしまったら、古代中国ではどのような対処をしていたのでしょうか。今回は、古代中国の消防事情を調べてみました。

周代

 中国最古の消防関連の官職は周代まで遡ります。『周礼』の記載によると、火の管理をする官職「司烜(しけん)」が設置されました。司烜は、太陽と月を祀る儀式などの宮中行事で火と水の調度を担当するほか、春の乾燥する時期「仲春」に、木槌で大きな鈴を鳴らし、街中を歩き回り、住民たちに火の用心を喚起していたと記されています。①

漢代

 漢代になると、火災と並んで水害、盗難も社会の治安を脅かすとの認識から、これらを一括管理する専門機関の「執金吾(しつきんご)」という武官が設置されました。つまり、漢代の「執金吾」は、火災、水害、盗難などの緊急事態を処理・予防・警戒する朝廷直属の官員でした。

唐代

 唐代になると、朝廷は「武候鋪(ぶこうほ)」という消防を専門とする消防組織を設置しました。長安や洛陽などの大都市にある市場や住宅街には「武候鋪」が設置され、さらには専門的な消防用具も使われ始めました。革の袋で水を汲み、「濺筒」と呼ばれる竹製の筒で水を散布し消火していました。

 この時代は、日常の不注意による火事の他に、敵襲による火災も多発しました。『通典』という書物には、そのような時の対処方法が記載されています。そこには「城砦が放火される前に、予め、竹を一丈の長さに切り、節を取って筒を作り、薄い革を縫い合わせて大きな袋を作り、大量の水を貯めておく。城砦が放火されたら、急いで組み合わせて「濺筒」を作り、数名の壮年の男が水の袋を押して水を噴き出させ、消火に当たる。門ごとに、このような消火器具を2組ずつ常備する。竹がない場合、木製の筒に漆を塗って、小さな「濺筒」を作り20組を常備する。門の内の「甕(かめ)」には常時水を貯めておく②」と記されています。

宋代

 宋の朝廷は、唐代の消防規則を継承し、厳重な防火対策を行っていましたが、頻繁に火災が発生し、火災による損失も少なくありませんでした。そのため、朝廷は、火災の加害者や怠慢な役人を厳重に処罰するだけでなく、火災を速やかに排除し、災害の拡大を避けるため、選抜された隊員によるプロの消防隊を設置しました。

 北宋の仁宗の勅命で、首都の東京(現在の河南省開封市)に駐在する軍隊「京廂軍」から選抜された兵士による、中国史上初の専門の消防署「軍巡鋪(ぐんじゅんほ)」が設立され、首都におかれました。「軍巡鋪」は「潜火隊」「火隅」とも呼ばれ、毎日軍隊同様の厳しい訓練が行われていました。

 北宋時代の暮らしを記録した『東京夢華錄』の「防火」の章には、「軍巡鋪」の事が詳しく記載されています。都城の全ての区画で、300メートル未満の距離ごとに一つの軍巡鋪が設置されました。駐在する五人の消防士は、夜間の夜回りを担当し、住民に蝋燭や台所の火を消すように促し、火の用心を喚起していました。また、標高の高いところに「望火楼」を建て、監視する人を常時配置しいました。望火楼の下には軍巡鋪の拠点があり、百人以上の消防士が駐在していました。火事を発見したら、いち早く警報を出し、各軍巡鋪に駐在する消防士たちに通達していました。火事警報を受けた消防士たちは、大小の水車、水がめ、梯子などの専用の消火器具を携え、すぐさま火事現場に向かい、住民を困らせないよう消火していました。③

 消防士たちを励ますために、宋代では消火に関する賞罰制度を制定しました。積極的に消火活動に参加した消防士には朝廷からの奨励が賜り、消火を怠けた消防士は軍隊の法律に則って処罰されました。「軍巡鋪」は、火災の予防、住民の救助に大きく貢献し、後世の人々が見習うべき先例となりました。

明代

 明代の首都・北京には、専門的な消防署は設置されませんでしたが、首都に駐屯する京軍が消火活動に当たっていました。一方、地方の都市には「火兵(かへい)」と呼ばれる専門的な消防隊が組織されていました。地方政府で管轄され、宋代の「軍巡鋪」とほぼ同じ活動をしていました。

清代

 清代の防火対策はより詳細になりました。紫禁城の所々にある真鍮や青銅の大釜は、消火活動のために設置されていた物であることで有名です。

 乾隆帝の時代、湖南省は「救火義役(きゅうかぎやく)」という消防組織を作りました。「救火義役」に所属する役人たちは名簿に登録され、省から毎年活動費が支給されました。1756年、湖南省は『救火事宜』を公布し、全ての「救火義役」に、番号付きの消防服の着用を義務付けしました。これは、本当の意味での「消防士」の出現と言えるでしょう。

 いかがでしたでしょうか。古代中国の消防事情を紹介しました。命懸けで私たちを守って下さる消防士の皆さんにご迷惑をお掛けしないよう、日頃から、もっと「火の用心」を心掛けましょう!
 
註:
 ①以木鐸修火禁于國中。(『周禮・秋官司寇』より)
 ②中国語原文:敵若縱火焚樓堞,以麤竹長一丈,鎪去節,以生薄皮合縫為袋,貯水三四石,將筩內於袋內,急縛如濺筒,令壯士三五人撮水口,急蹙之救火。每門常貯兩具。如無竹,以木合筩,漆之而用,並小濺筩二十具兼助之。門內常以瓮貯水添用。(『通典・兵五<守拒法>』より)
 ③每坊巷三百步許,有軍巡鋪屋一所,鋪兵五人,夜間巡警及領公事。又於高處磚砌望火樓,樓上有人卓望。下有官屋數間,屯駐軍兵百餘人,及有救火家事,謂如大小桶、洒子、麻搭、斧鋸、梯子、火杈、大索、鐵貓兒之類。每遇有遺火去處,則有馬軍奔報。軍廂主馬步軍、殿前三衙、開封府各領軍汲水撲滅,不勞百姓。(『東京夢華錄・第三卷<防火>』より)

(文・乙欣、清浅/翻訳・常夏)