前漢・劉向『列女伝』挿絵(パブリック・ドメイン)

 戦国時代(紀元前5世紀ー紀元前221年)、魏の国の曲沃(中国の山西省臨汾市)というところには「負」という女性がいました。彼女は魏の国の大夫・如耳の母親で、曲沃に住んでいたことから、歴史上では「曲沃負」と称されています。当時の魏の国王・哀王は太子の妃を自分の妾にしようとしましたが、曲沃負は宮殿を訪れて道理を説き、哀王にその計画を止めさせました。

 当時魏の国の公子政は人質として秦の国にいました。秦の惠文王十二年(紀元前313年)、公子政は魏の国に帰り、魏の哀王によって太子に指定されました。

 その後哀王は太子のために妃を選ばせました。選ばれた妃はあまりにも美しかったため、哀王は妃を自分のものにしようと考えました。このことは魏の国で知れ渡るようになり、国民は皆このことについてあれこれと議論していました。

 曲沃負は息子の如耳に「魏の王は愚かで是非善悪の区別がつきません。大夫として、あなたはなぜ彼の行為を是正しないのか。今は戦国の乱世です。魏の国は強くないし、魏の王は道徳性に欠けている。これでは国をうまく治めることができません。もしあなたが直ちにこのことを止めないと、魏の国に必ず災難が降りかかってきます。そのとき必ずしわ寄せがわが家にも来ることでしょう。あなたは直訴すべきです。自分の忠誠心で災難を防ぐべきです」

 曲沃負は見識が深かったので、魏の王が太子の妃と結婚すれば必ず魏の国に災難をもたらすことを分かっていました。そして魏の国に災難が来るときは必ず国民にもしわ寄せが来ます。このような災いを未然に防ぐために曲沃負は息子に直訴させましたが、息子の如耳は斉の国に使いとして派遣されてしまいました。

 そこで曲沃負は宮殿の前まで行き、魏王に直訴しました。曲沃負は魏王に言いました。「男女の区別は国家における重要な礼儀の一つと聞いています。しかし女性は多くの場合意志が弱いため、正しい方向へと導く必要があります。そのため、女の子は十五歳に成人式を行い、二十歳のときには結婚させます。これは早めに女性を教育し、家庭を作る準備のためです」

「男性から結納を入れてから結婚した相手だけを妻と呼び、駆け落ちて結婚した相手はただの妾となります。こうした習慣は淫乱な風潮を避けるためです。女性は結婚相手の男性のお迎えがあって初めて夫の家に行くことができます。これは女性の貞操のしるしでもあります。

「現在、大王様は王太子の妃を自分のものにしようとしていますが、これは道徳に反する行為です。古来の賢明な君主はみな正当な方法で妃を選んできました。これができない君主はみな災いをもたらしてきました。」

「夏王朝、商王朝、周王朝が栄えたのは、君主の妻たちが道徳的に高尚だったためです。また、これらの王朝が滅亡したのは、君主の妻が貞淑ではなかったからです。」

「男女の交わりは礼儀に則ったものでなければなりません。男女の交わりがあって初めて父子があり、父子があって初めて君と臣があるのです。したがって、男女の結婚において、倫理的に正しいことは基本中の基本です。君主は大臣の道徳的模範となり、父は子の道徳的模範となり、夫は妻の道徳的な模範となるべきです。しかし王様は自ら道徳に悖る行為をしようとしています。これは倫理にそぐわないことです。」

「道徳をしっかりと修めることによって天下を治めることができます。しかし道徳を修めることができなければ天下は必ず乱れます。王様の行為は倫理に背くものです。しかしそれは王様が天下を治める重責をないがしろにし始めていることと同じなのです。」

「現在、私たち魏の国はいくつもの敵国に囲まれています。南には強大な楚の国があり、西側には虎狼の師を擁する秦の国があります。魏の国はそれらの国に挟まれていますので、存亡の危機はいつでもやってきます。王様はこのことを憂うることもせず、人倫と道徳に悖ることをしようとしています。魏の国にはまもなく危機が訪れることでしょう。」

 魏の王はこの話を聞いて、道理をわきまえて邪念を打ち消しました。同時に報奨として曲沃負に多くの米を与え、息子の如耳の官位を昇進させました。

 その後魏の王は道徳を修め、勤勉に国家を治めました。その名声は遠く秦と楚まで伝わり、長らく侵略されることもありませんでした。

 中国古代の書物「四書五経」には「敬之敬之、天維顕思(気を付けるべきだ、気を付けるべきだ、お天道様は地上のあらゆる物事に目を光らせている)」という一文があります。これは周の成王が自己と大臣を戒めたとされる言葉です。曲沃負の言葉を聞いた魏の王も自己を戒めることができ、道徳的模範となることができました。そして国政に勤しむことにより魏の国力を向上させることができ、侵略されることを免れました。

参考資料:『列女伝 仁智伝』(前漢の学者、政治家劉向(りゅう きょう、紀元前77年―紀元前6年)によって撰せられた)

(翻訳・謝如初)