唐招提寺金堂 奈良時代(8世紀後半)寄棟造・本瓦葺(663highland, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

一、唐招提寺金堂と鴟尾

 唐招提寺金堂は唯一現存する奈良時代の金堂建築です。8世紀後半、鑑真の弟子の一人であった如宝の尽力によって、鑑真の没後に完成したと言われています。唐招提寺金堂はとても貴重な建築物として国宝に指定されています。

 唐招提寺金堂は平安時代後期、鎌倉時代、明治時代に4度ほど補強工事が行われましたが、部材などには1200年以上前の建造当初のものが多く残っており、創建当初の姿をほぼそのまま留めています。

 唐招提寺金堂は桁行七間、梁間四間の寄棟造で、その縦と横の長さの比率が1:1.618の黄金比となっています。他に黄金比を持つ建築物として有名なのは、ギリシャのパルテノン神殿、パリの凱旋門、エジプトのピラミッドなどがありますが、唐招提寺金堂はその堂々たる姿と東洋の美しさで世界中の多くの人々を魅了しました。

 金堂の屋根の左右を飾るのは「天平の甍」として有名な鴟尾です。東側にあるのは鎌倉時代元亨3年(1323年)に修復されたものですが、西側にあるのは創建当初のもので、1200年の間、金堂を災難から守り続けて来た正真正銘の「天平の甍」です。この鴟尾は現存する唯一の奈良時代のもので、現役で頑張っているものでは、世界の最長の歴史を誇ります。現代の瓦職人でも信じられない技術だと言うほどです。

唐招提寺金堂の鴟尾(663highland, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

二、金堂の鴟尾にまつわる伝説

 鴟尾(しび)は飛鳥時代に中国大陸から伝わった屋根の飾りです。その強く反り上がる形は、建物に威厳を与えると同時に、屋根に降りかかる雨水を排水する役割もあり、魔除けの意味も持っているそうです。古代中国では、鴟尾は宮殿や寺院などの建築物にしか使用が許されず、屋根に設置する際、香を焚き、「礼」を行い、敬意を表す儀式を行わなければならないほど、とても大事なものです。

 唐招提寺金堂は、2000年より10年間に及ぶ大規模な修理事業が行われました。金堂を守って来た二つの鴟尾はいずれも劣化が激しいため、平成の大修理に伴い、屋根から下ろされ、新たな平成の鴟尾と世代交代しました。引退した鴟尾は現在、唐招提寺の「新宝蔵」に展示されています。
西側の創建当時のものは高さ1.2m、重さ185kgで、東側の鎌倉時代に製作したものは高さ1.2m、重さ237kgでした。

 実は、この古い鴟尾には特別な歴史的背景があり、その由来にまつわる秘話があるのです。それについて、井上靖氏の小説「天平の甍」にも記述がありました。

 要約すると、「この鴟尾は、天平宝字2年(758)、遣渤海使の小野田守が帰朝の際、大陸から持ち帰ってきたものだった。当時、長安では大規模な反乱「安史の乱」が起き、寺院が破壊され、残されたこの鴟尾を、誰かが既に帰国した普照(ふしょう)に届けるようにと、遣渤海使の小野田守に託した。小野田守はそれを日本に持ち帰り、普照に届けた。

 その時ちょうど唐招提寺の工事が進行中だった。普照はこの海を渡って来た瓦製の鴟尾を唐招提寺の工事の司である藤原高房のもとに差し出した。そして、この唐様の鴟尾が金堂の大棟の両端にそのまま使われた」とのことです。

 小説のこの一節は鴟尾により一層歴史の重みを増し、私達の様々な想像をかき立てました。鴟尾の来歴はもはや誰にも分かりません。しかし、唐招提寺金堂を守り続けてきた鴟尾は、1200年の風雨に堪えることができた事実、そのこと自体が奇跡です。唐招提寺金堂の鴟尾は自らの姿を持って、鑑真の不屈の精神を人々に示し、訴えようとしたのでしょうか?

 1200年間という長い歴史は、天平の鴟尾の忍耐力、責任感、犠牲と勇気、そして想像を絶する苦労と努力をすべて物語っているように思いました。

 いつか奈良に行って鴟尾の前で拝みたいと思います。

(文・一心)