唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上像」

 『唐大和上東征伝』(以下『東征伝』)は、宝亀10年(779年)に淡海真人(※1)が著した鑑真の伝記です。これは鑑真の弟子である思託(※2)が撰した『大唐伝戒師僧名記大和鑑真伝』(全3巻)等を1巻にまとめたものです。思託の撰した伝記が失われたため、『東征伝』は鑑真に関する最も基本的な史料となりました。

 『東征伝』は、鑑真が唐での経歴と名声,伝戒師の招請を受けてから、5回も渡航に失敗し,視力を失いながらも12年後に渡日を達成するまでの経緯,聖武太上天皇に菩薩戒を授けたこと、唐招提寺を建立したこと、そして没するまでの歴史が記されたものです。その中に、鑑真和尚が日本との不思議な因縁にまつわる話があるので、ここで紹介します。

鑑真第六回渡海図(パブリック・ドメイン)

一、鑑真が渡日を決意した理由

(1)聖徳太子の転生説

 『東征伝』の記述によると、742年10月、遣唐留学僧の栄叡と普照は揚州の大明寺を訪れました。2人は鑑真和尚の足下に頂礼し、「私の国の聖徳太子は『200年後に聖教が日本に興ろう』と言ったが、今がその時だと思う。和尚、どうか日本に来て、仏法を興してください」と、鑑真の来日を懇願しました。すると、鑑真は「南岳恵思禅師が亡くなった後に、日本国の太子として生まれ、仏法を興隆し、人々を救済されたと昔に聞いているが…」と答えました。

 鑑真の会話中に出て来た南岳恵思禅師(515―577年)は、中国の南北朝時代の高僧で、天台宗の創始者・智顗の師にあたり、中国天台宗第2祖とされる人物です。恵思禅師が日本の聖徳太子に転生し、日本で佛法を弘めていたことは当時中国に伝わっていました。

 恵思禅師の転生説について、それが事実かどうか明確ではありませんが、修行を重ね、悟りを開いた高僧が、宿命通という神通力を用いることで、人の過去と将来、前世と来世を精確に見られるのは、決して不思議な事ではないように思います。恵思禅師が聖徳太子に転生したことを信じている鑑真和尚は、日本で佛法を弘めなければならないという使命感に心を動かされ、日本との縁を強く感じていたかも知れません。

南岳恵思禅師(515―577年)(パブリック・ドメイン)

(2)長屋王が贈った袈裟

 栄叡と普照の日本への招請に対して、鑑真は更に、「日本国の長屋王は仏法を崇敬し、袈裟を1000枚作り、この中国の大徳の僧侶たちに施した。その袈裟の襟に『山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁』の四句が刺繍してあった。これを思えば、誠にこれは仏法が興隆する縁のある国だ」と言ったことも記されています。

 ここで登場した1000枚の袈裟とは、天武天皇の孫である長屋王が唐に贈ったものです。長屋王は大規模な写経事業を二度主宰するなど、仏教に深く帰依した人物でした。1000枚の袈裟は717年の第9次遣唐使に託されたものと見られ、そのうちの1枚が鑑真の手元に届きました。日本からのメッセージに鑑真は感銘を受け、慈悲心が生まれ、渡航の困難を承知の上、日本行きを決意したと思われます。

二、14歳の鑑真が出家したきっかけ

 鑑真の日本との縁は、これだけに限りません。鑑真の出家の動機については、『東征伝』では、「鑑真は14歳の時、父について揚州大雲寺へ行った際、仏像を見て感動し、そのため、出家させてほしいと父に強く願った。父もまたこの志を非常に立派なものと思い、許してくれた」ということが記されています。

 14歳の鑑真少年が感動した仏像とはどんなものだったのでしょうか? 

 紀元前6世紀に、インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に、栴檀の木で釈迦と等身大の像を作りました。この栴檀像は釈迦37歳の生きた姿を刻んだものと言われ、後に鳩摩羅什三蔵(くまらじゅう 344年―413年)によって中国にもたらされました。史料「優填王所造栴檀釈迦瑞像歴記」(※3)に、この釈迦像が天竺から西域を経て中国に運ばれ、中国の各地を転々と移動したこと、そして揚州大雲寺に安置されていたことも記されていました。揚州大雲寺を訪れた鑑真はインド伝来の生身の釈迦像にめぐり逢い、感動をし、出家のきっかけとなったのではないかと推測されています。

 平安時代に入宋した日本の僧侶・奝然が985年に台州(浙江省)の開元寺で、張延皎・延襲兄弟にこの釈迦像を模刻させ、日本へ持ち帰りました。「三国伝来の瑞像」と呼ばれるこの釈迦像は、現在、京都の清涼寺に奉られ、日本の国宝とされています。

 関係がないように思われるかもしれませんが、仮に、清涼寺の釈迦像の元となった仏像に鑑真が感動したならば、単なる偶然とは思えず、人知を超えた不思議な因縁を感じざるを得ません。14歳の鑑真が仏像を見た瞬時に得た感動は、その後の彼の人生に強く響き渡り、渡日の原動力となり、心の支えになっていたかもしれません。

京都の清涼寺にある国宝木造釈迦如来立像(Public domain, via Wikimedia Commons)

 5度の渡航に失敗し、かつ視力を失いながらも伝戒のために来日した鑑真ですが、その強い意志を支えていたものは、佛法に対する強い信念、慈悲深い心、そして、日本との不思議な縁によるものだったのかもしれません。鑑真は両眼を失明しましたが、見えるものより心で感じたものを何よりも大切にしていた彼は遂に渡日の夢が叶いました。1200年も前に、鑑真が行った偉業は時空を超えて、今でも人々に感動を与え続けています。

※1 淡海真人:奈良時代後期の皇族・貴族・文人。天智天皇の玄孫。大友皇子の曽孫。若い時に唐人の薫陶を受けた僧であったこともあり、外典・漢詩にも優れていた。現存最古の漢詩集『懐風藻』の撰者とする説が有力である。

※2 思托(したく):鑑真の弟子。鑑真が戒律を伝えるために日本に渡ることを決意した時から共にし、度重なる苦難に見舞われた。渡航を試みた12年の間に、4度造船し、五度海に入ったとされる。743年の日本渡航に参加し、天平勝宝6年(754)、ついに来朝することができた。唐招提寺の建立に尽力した。また、伝香寺を建立したと伝えられている。

※3 「優填王所造栴檀釈迦瑞像歴記」には、栴檀像の造立に関する諸説、さらに栴檀像が天竺から西域を経て中国に運ばれた事情等が記されている。この資料は、奝然に随行した弟子盛算が書写して日本に持ち帰ったものである。

(文・一心)