(イメージ / Vision Times Japan)

 紀元前496年、孔子は魯(ろ)の国の大司寇(司法官)に就任し、宰相(現在の総理大臣)の職務を代行することとなった。しかし孔子は就任して間もなく、「政を乱す者」として少正卯を処刑したと伝えられている。少正卯は人を殺したわけでもないのに、なぜ処刑されたのだろうか。

 孔子は「仁・義・礼・智・信」を説き、儒家を起こした仁愛深い人物だ。彼の統治により、魯の国は三か月のうちに持ち直し、国民の生活も安定した。一方の少正卯は魯の国の大夫であり、名が知れて声望も厚かった。

 当時、孔子には3千人の弟子がいた。ある日、少正卯も孔子のように講義をしたところ、孔子の弟子たちもそれに参加するようになり、少正卯の講義は繁盛していた。一方、孔子の講義は満員のときもあれば、空席が目立つときもあった。

 大司寇に就任して7日目、孔子は少正卯を処刑した。魯の国の民は大きな衝撃を受け、その理由を孔子に尋ねた。弟子の子貢は「少正卯は高く評価されていました。先生は大司寇就任7日目にして彼を殺しましたが、これは間違いではないでしょうか」と聞いた。

 「こちらに来て座りなさい。彼を殺した理由を教えましょう」と孔子は言った。「世の中に五種類の大悪がある。一つ目は、内心が正道に背き陰険であること(一曰心逆而険)。二つ目は、行為が卑劣にして頑固であり断固として悪を改めないこと(二曰行辟而堅)。三つ目は、偽りの話をしながら巧みに弁を振るうこと(三曰言偽而辯)。四つ目は、愚かで醜いものを記録し広く伝播させること(四曰記醜而博)。五つ目は、間違った言行に従って行動しそれを美化すること(五曰順非而澤)。

 「このうちの一つでも当てはまれば、道理を熟知した君子による刑罰は免れない。少正卯はそのすべてを兼ね備えている。さらに、少正卯は徒党を組み不穏な動きを見せている。その弁舌は民を惑わし、反乱を起こすほどの実力を持っている。」
 「湯王は尹諧を誅し、文王は潘止を誅し、周公は管叔と蔡叔を誅し、太公は華仕を誅し、管仲は付乙を誅し、子産は史何付を誅した。7人の時代は違うが、それらの者はみな正道に背いたため、見逃すことはできない」

 少正卯について次のような議論がある。「晋書」の列伝第五十八によると、東晋の光禄大夫・顔含は少正卯を盗賊と比較して次のように言った。「盗賊が邪悪であることは一般人がみな知っているため、それを防ぐことができる。しかし少正卯のような類は隠れた邪悪であり、一般人には察知することすら難しい。したがって聖人のみがそれを除去することができる」

参考資料:「孔子家語・始誅」
「孔子家語(こうしけご)」は「論語」に漏れた孔子一門の説話を蒐集したとされる古書。10巻。(ウィキペディア)

(翻訳・襄譲)