漢國神社 饅頭石、奈良(Kochizufan, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons)

 「饅頭」と聞くと思い出されるものに、卒業式等の祝いの席で貰う「紅白饅頭」、お茶請けとして出される「利休饅頭」、温泉街で食べるふわふわの「温泉饅頭」がある他、「もみじ饅頭」や「栗饅頭」、「葛まんじゅう」、「酒饅頭」など、数え切れないほどの種類があり、日本の伝統菓子の中では、横綱格とも言える存在となっています。

 饅頭の起源は中国にあり、その発案者は「三国志」でお馴染みの天才軍師「諸葛孔明」(181〜234年)だと言われています。そして、「饅頭」は元来中国語で「まんとう」と発音しますが、日本に伝わると、「まんず」と訓読みされ、それが転じて「まんじゅう」となったと言われています。

 一、饅頭誕生についての説話

 饅頭の誕生について、歴史小説『三国志演義』第91回には以下のような話が書かれています。

 孔明が225年に南方征伐に出陣し、反乱を起こした南蛮の王を帰伏させ、帰途につきました。 

 季節は9月の秋でした。孔明軍が国境にあたる瀘水(長江の上流部 現在「金沙江」と呼ぶ)に差しかかると、暗雲が立ちこめ、突風が吹き荒れ、波が高く、とても渡れる状況ではありませんでした。そこで、孔明は蛮族の王にその理由を尋ねると、「これは、この川に住む荒れ狂う神の仕業であり、鎮めるためには祭礼が必要だ。祭礼として、49個の人の首、そして黒牛、白羊を生贄として捧げなければならない」と蛮族の王は言いました。

 孔明は「南方を既に平定した。これ以上の犠牲を出してはいけない」と言い、そこで、人に小麦粉で生地を作らせ、牛と羊の肉餡を包み、人頭に見立てたものを生贄として祭礼を行いました。すると、川の氾濫が収まり、孔明軍は無事に帰還することができたのでした。

濾水の岸で饅頭を捧げ、祈祷する孔明 (「三国志通俗演義」より)

 蛮地での儀式において、蛮人の頭の代わりに作られた「蛮頭(まんとう)」は、後に「蛮」が「饅」の字に改められ、饅頭(まんとう)と呼ばれるようになった、とされています。

 このように、饅頭は様々な祭事の供物として使われ、祭事後でも食べられることから、日常的な食品としても食べられるようになりました。その後、時代と共に、饅頭は小ぶりになり、肉餡や野菜餡、餡なし等種類が豊富になり、中国全土に広がり、更に、世界各地にも広がりました。

お祝いの際などに配られる紅白饅頭(Ocdp, CC0, via Wikimedia Commons)

 二、饅頭の日本への伝来

 饅頭の日本伝来の歴史を遡ると、幾つかの説がありますが、ここでは、日本の南北朝時代に中国から来日した林浄因(りんじょういん)が伝える饅頭の話を中心に進めたいと思います。

 1349年(貞和5年)、宋で修行を終えた龍山徳見禅師は帰国した際、林浄因と言う中国人俗弟子と共に来日しました。その後、林淨因は奈良に居を構え、饅頭を作って商いを始めました。中国では肉を詰めた饅頭(まんとう)が食べられていましたが、戒律で肉食できない日本の禅僧のため、彼は小豆の餡を生地に包んで蒸し上げました。

 柔らかくて甘い饅頭は、僧侶のみならず、上流階級の間でも大評判になりました。そして、仏教の伝来と共にお茶も日本に広がり、饅頭はお茶菓子としても親しまれるようになりました。

 林淨因が作った饅頭は、後村上天皇(在位1339−1368)に献上されるほど人気を集めました。後村上天皇は林淨因を寵遇し、結婚の世話までし、結婚の際に周囲に配られた紅白饅頭は、今日の婚礼などの慶事の際に配る紅白饅頭という習慣の始まりとなりました。

 その後、龍山徳見禅師が亡くなると、林浄因は寂しさのあまり中国に帰国してしまいました。

 しかし、彼の子孫は日本に残り、饅頭屋を営み、後に「塩瀬」の名を冠して、現在の和菓子屋「塩瀬総本家」につながるとされています。

 ここでは、「塩瀬総本家」の看板商品の一つである塩瀬特製「薯蕷饅頭」についての記述を一部抜粋し、紹介します。 

 「…その後、四代目の紹伴が、中国に渡り宮廷料理であった薯蕷饅頭の製法を習得して帰りました。以来その製法を今日まで守っております。

 塩瀬の薯蕷饅頭は、大和芋を毎日すりおろし、上新粉と合わせ、20年以上の職人が手でこね上げます。水は一滴も加えません。そして、北海道直送の小豆で作る実家製の餡を包んで蒸し上げます。

 ふわっと柔らかく、それでいてしっとりとした歯ごたえと共に山芋と小豆の香りが広がる饅頭は、他の饅頭とは一線を画すものです(情報元 塩瀬総本家)」

薯蕷饅頭(7’o’7, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

 670余年前に中国から来日した林浄因が作った饅頭は、日本の和菓子の饅頭の誕生に貢献し、そして、その製法と味は彼の末裔によって絶やされることなく今日まで受け継がれてきました。様々な新しい菓子が誕生し、機械化が進む現代社会において、古い技法を守り、本物にこだわり、伝統継承に信念を持つ塩瀬饅頭は凄いものです。

 一方、お菓子と位置付けられている日本の饅頭と違い、本家の中国では、諸葛孔明が発案した肉餡の饅頭は、やがて餡のあるものと餡の無いものに分かれ、餡のないものは饅頭と呼ばれ、餡のあるものは包子(ばおず)と呼ばれるようになりました。現在の中国では、饅頭は餡のない蒸しパンの総称となり、特に北方地方の主食となっています。

参考文献:『まんじゅう屋繁盛記 塩瀬の650年』著者 川島栄子 岩波書店

(文・一心)