三国時代の蜀には史官がいなかったため、武将「趙雲(ちょう・うん)子龍(しりゅう)」に対する認知は陳寿の『三国志』の「関張馬黄趙伝」の記載からになります。この中で、趙雲に関する説明はわずか200文字あまりなのですが、この短い記述から、彼が文武両道、智勇兼備(ちゆうけんび)の武将であったことが分かります。
趙雲は、単騎で主を救う猛将である一方で、心優しく、人を慈しみ、思いやる気持ちを持ち、筋道を立てて物事を行う建国の忠臣でもあるため、とりわけ尊敬され、慕われていました。『三国志演義』が世に出てからは、民間伝説や戯曲(註)の力を借りて、「趙雲子龍」は徐々に完璧な武将像として認知されるようになりました。
「三国」といえば、個性豊かな劉・関・張の三兄弟や、超人的な機知と巧妙な策を持つ諸葛孔明に注目する人が多いでしょう。一方、優れた武術の腕前と勇敢さだけでなく、裏方として黙々と努力している趙雲に対して、彼の心や将軍としての「道」はどのようなものなのか、あまり知られていないかもしれません。今回はその一部の事跡より、趙雲の「横顔」を見てみましょう。
従う主を決めれば、どんな逆境でも裏切らない
初平二年(紀元191年)。趙雲は若い頃、偶然に敗れた公孫瓚(こうそん・さん)を助け出したので、公孫瓚の配下に仕えました。しかし、彼は「この国は今、混乱に陥っており、誰が明主であるかはまだ分かりません。国民は転覆の危機に瀕しており、仁政を実施する勢力に従うつもりであるため、私は袁紹(えん・しょう)公ではなく公孫瓚将軍に身を寄せると決めました」と言いました。
その後、趙雲は、漢の王室の末裔である劉備と出会いました。趙雲は、劉備こそが民を思う明君だと見抜き、公孫瓚に別れを告げて故郷へと帰ります。自ら見送りに来てくれた劉備に対して、趙雲は大変感激し「私は決して玄徳公のことを裏切りません」と誓いました。その後、劉備は曹操(そう・そう)に敗れ、袁紹のところに降伏して孤立しましたが、趙雲は変わらず劉備に仕え、劉備のため兵を募りました。
趙雲は、情勢の良し悪しによって従う主君を変えるのではなく、仁政を行い民を思う明君だと見抜いたら、どんな逆境に置かれても主君を裏切ることなく従い続ける忠臣であったことが、このことからも明らかです。
単騎で主を救い、道義は金石を貫く
建安十三年(紀元208年)、曹操は再び数万の大軍を南方に派遣し、劉表についた劉備を滅ぼすことを目論んでいました。この時、劉表は死亡しており、その息子の劉琮(りゅう・そう)は直ちに曹操に降伏しました。一方、わずか2,000の兵力しか持たない劉備は、逃亡以外の選択肢はありませんでした。しかし、劉備は自発的に彼に付いて行く人たちを手放すつもりもありませんでした。したがって、劉備勢は一日に5kmぐらいしか前進できず、すぐに当陽(とうよう)の長坂の近くで曹操軍に追いつかれました。
混乱の中で、劉備は二人の妻、甘(かん)夫人と糜(み)夫人、そして息子の阿斗と引き離されました。その時、趙雲が北に向かっているのを見た人がいたので、趙雲は曹操に身を寄せるために北に向かったに違いないと言っていました。それを聞いた劉備は「子龍は決して私を見捨てないだろう」と答えました。
劉備の読み通り、趙雲は長坂坡にある敵陣の包囲網を七回も出入りし、曹操の将軍50名以上を討ち取り、甘夫人と阿斗を救出しました。後世に称賛される「長坂の戦い」となりました。
この物語は、神韻芸術団の2023年の世界巡回公演で『単騎の趙雲』という題名で中国古典舞踊劇として舞台に取り上げ、世界中の観客に披露され、趙雲の忠義と勇気を世界の隅々まで伝えました。
欲望に耽らず、道義を大切にする
赤壁の戦いの後、趙雲と劉備は力を合わせて長江以南の土地を平定し、趙雲は仁義をもって桂陽太守である趙範(ちょう・はん)を招へいしました。趙範は、趙雲とすぐに意気投合し、同郷、同い年、同じ姓であったため、趙雲と兄弟の契りを結びました。
趙範の兄が亡くなり、その未亡人である樊氏(はんし)が大層な美女でした。趙範は彼女を趙雲と結婚させたいと考えていました。しかし、趙雲はその計画に悪意があると見抜き、「あなたと兄弟になった以上、あなたの義理の姉は私の義理の姉になります。乱倫(らんりん)なことなどはあり得ません」と拒否しました。
その後、趙範はやはり反乱を起こして逃亡しました。
名利や地位に淡泊で、国と国民を心にかける
建安十七年(紀元212年)、劉備は諸葛亮の提案に従い、益州を攻撃し成都を支配しました。趙雲は勢いよく南路軍を率い進軍し、成都で諸葛亮と合流しました。劉備は成都を支配した後、功績に応じて将軍たちに褒美をしようと、成都城内の屋敷と城外の土地を将軍たちに与えることを考えました。
しかし趙雲は、民が最も重要であり、農業を基盤としなければならないと考え、民が豊楽(ほうらく)になってからこそ、国は長期的な平和と安定を得ることができると信じていました。そのため、彼は「前漢武帝の御代、名将・霍去病(かく きょへい)は、匈奴討伐を一通りなしても、『彼らを根絶できてはいないから』と、居を構えませんでした。ならば我々とて、身を安んぜるには未だ尚早でしょう。今の天下はまだ平和にならず、益州(えきしゅう)の民たちは度重なる戦争に見舞われ、田畑も家も空っぽになってしまいました。今こそそれを民に還元する時でしょう。民が安心して暮らし、働けるようにすることが、民の心を掴む道理なので、個人的な利益のためにそれらを奪って武将の褒美にするのはいかがなものかと」と強く言いました。
劉備は趙雲の提案を採用しました。その後やはり、益州の民心は劉備に従い、益州は充分な発展ができ、民も国も繁栄し、曹魏との覇権争いに向ける良い基盤を築きました。
一身是胆(いっしんしたん)な虎威将軍
建安二十三年(紀元218年)、劉備は漢中に向けて進軍します。黄忠勢は魏軍に包囲され、期日通りに帰還できませんでした。それを聞いた趙雲は、数十騎の小部隊を率いて敵陣に突入し、黄忠勢を救出しました。
その後、魏軍は圧倒的な兵力で蜀軍を十重二十重に包囲しました。冷静沈着な趙雲は、陣地の門を大きく開け、軍旗を下ろし軍鼓を打つのをやめ、一人で陣営の前に立ち魏軍を待ちました。趙雲が山のように動かないのを見て、魏軍は待ち伏せがあると疑い、引き返して撤退しました。そしてこの時、趙雲は軍鼓を打ち、魏軍に矢を撃つよう命じました。魏軍は恐怖に陥り、撤退しつつも惨敗しました。この「漢水(かんすい)の戦い」での蜀軍の大勝利で、
翌日、趙雲の兵舎を訪れてきた劉備は戦場を見て、「子龍は一身是胆たるや!」と褒めました。
苦心(くしん)で諫言(かんげん)し、主を忠実に守る
建安二十四年(紀元219年)、関羽(かん・う)は樊城の戦いで戦死。二年後、劉備は皇帝となり、関羽の仇をとるために国の総力をあげて呉国を攻撃しようとしました。趙雲は何度も説得しましたが、劉備は復讐心が溢れて何も聞き入れず、結局劉備は陸遜(りく・そん)の策によって敗北し、永安(現在の四川省奉節県)に逃げ帰りました。 趙雲が援軍を率いて永安に着き、呉軍を退却させたものの、蜀の国力(こくりょく)は大きく損なわれました。
建興元年(紀元223年)、劉備が白帝城で亡くなり、劉禅が王位に就き、諸葛孔明が『出師表』をもって魏への攻撃の準備を整えました。この時、趙雲はすでに70代を超えていましたが、それでも全力を尽くして前に出る決意をしました。
趙雲と鄧芝(とう・し)は一部の軍を率いて進軍しました。その途中、趙雲は五人の将軍を次々と討ち取りましたが、魏軍の主力軍と遭遇し、魏軍6万によって鳳明山の麓に閉じ込められました。趙雲は八人の将軍を相手に全力を尽くして戦いましたが、12時間も戦い続けてもこう着状態になっていたため、馬から降りて休息し、鎧を脱いで座っていました。その後、関興と張苞が趙雲の危機を救援に来ましたが、趙雲はまた、自ら最後尾で援護し、蜀軍の退路を一歩ずつ守りました。魏軍は趙雲の勇さを恐れて追撃する勇気はなく、趙雲は兵騎の一つも失うことなく安全に帰還しました。
当時、趙雲軍には絹布が余っていたため、諸葛亮はそれを兵士に配るよう命じましたが、 趙雲は「我が軍は敗戦を喫しましたのに、どうして褒美を頂ける義理がありますでしょうか。これらの絹布を全部国庫に入れて、十月になったら、皆の防寒着を作って頂きたい」と言いました。
翌年、趙雲は亡くなりました。彼の二人の息子、趙統(ちょう・とう)と趙広(ちょう・こう)は劉禅を主君として従い、やがて戦死しました。
趙雲は生涯を通じて清廉であり、決して側室を娶ることはなく、一銭でも貪らずにいました。自分の手柄を自慢したり、自分の過ちをほかのもののせいにしたりすることはしませんでした。軍の整備には厳格で模範を示し、国や軍隊、そして国民に常に気をかけて、中国史上稀有な武将だと言えます。趙雲の武勇伝は決して無駄ではなく、その将たる道を残し、武霊となり、中国の地を守り続けてきたのです。
註:戯曲(ぎきょく)とは、中国の古典的な演劇の一種。「戯」は舞踊や雑技、「曲」は歌謡の意味で、劇中に舞踏や歌謡が用いられることを特徴とする。
(文・藍培綱/翻訳・宴楽)