偕楽園(Kentaro Ohno CC BY 2.0 via flickr

 『偕楽園(かいらくえん)』は、金沢の『兼六園(けんろくえん)』、岡山の『後楽園(こうらくえん)』とならぶ日本三名園のひとつです。天保13年(1842年)に水戸藩第九代藩主・徳川斉昭(なりあき)によって造園された偕楽園は、関東地方・茨城県水戸市の中心部に位置し、日本随一の梅の名所として親しまれているだけでなく、世界にも名を馳せています。

 「偕楽」とは、中国の古典『孟子』の一節「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よ)く楽しむなり①」からとっています。斉昭は、弘道館(こうどうかん)で文武をしっかり修業した水戸藩の藩士たちが、心身をゆっくり休めて鋭気を養うための一対の教育施設として偕楽園を作りました。その趣旨を記した「偕楽園記」には「余(斉昭)が衆と楽しみを同じくするの意なり」とあり、藩士のみならず、領内庶民への開放も目的としていたことが記されています。

徳川斉昭(京都大学付属図書館所蔵品, パブリック・ドメイン, via Wikimedia Commons)

 偕楽園は、斉昭が藩主就任後に初めて水戸に国入りした天保4年(1833年)に構想されました。水戸藩内を見て回った斉昭は、西に筑波山を遠望し、南に千波湖を接し、そして城南の景色を一望できるこの場所の景観に感動しました。その良さを尊び、さらに引き立たせるため、春に先駆けて咲く梅の樹を数千本植えて、国中の人々が楽しめる場となるよう考えました。その他にも斉昭は次々に独創的な工夫をこらし、特に、好文亭(こうぶんてい)楽寿楼(らくじゅろう)から展望できる梅林、桜山、水田、茶園など、周辺の景観も庭園要素として取り込んだ広大な全体像を構想しました。

 天保12年(1841年)4月、造園工事を開始し、翌13年7月1日には開園、同月27日に公開日を迎えました。

 斉昭のおかげで、偕楽園は日本随一の梅の名所となりました。百種類以上、三千本を超えると言われる梅の樹が「東西梅林」を成します。気象条件や品種により毎年の開花時期に差がありますが、12月下旬から咲き始める「冬至梅(とうじばい)」という早咲の品種から、3月下旬頃が見頃となる「江南所無(こうなんしょむ)」のような品種まで、長い期間楽しむことができるのが特徴です。

 毎年、梅の開花時期になると、偕楽園の「陽」の空間を象徴する「東西梅林」には大勢の観光客が訪れます。更に毎年2月中旬から3月下旬にかけて開催される「水戸の梅まつり」は、120年以上の歴史を持つ水戸の一大イベントで、来場者数も常に10万人を超え大盛況となります。

夜梅祭のキャンドルライト(Σ64, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons)

 広大な梅林の袖に、千波湖をはじめ周囲の景観が一望できる突き出た台地があります。名を「仙奕台(せんえきだい)」。「奕」は囲碁を意味し、四方を眺め湖上から吹き上げる涼風を受けながら、囲碁や将棋などを楽しむための場所でした。「千波湖を含む眼下の広大な自然の景観を楽しみながら、囲碁や将棋に興じて鋭気を養って欲しい」。そう願っていた斉昭の領民に対する思いが顕れる象徴的な一角です。仙奕台には、石でできた碁盤や将棋盤・琴石など、当時のものが今でもそのまま残っています。

 仙奕台から千波湖を後にして歩くと、偕楽園内で最も華麗なる建築物「好文亭」の入り口が見えてきます。木造二層三階建ての「好文亭」と木造平屋作りの「奥御殿」から成る「好文亭」は、その位置から建築意匠まで、斉昭自ら定めたと言われています。シンプルで広々とした空間設計により、訪れた人の動線と中庭の風景が一体となり、ひと足毎に変化する視線の角度は、異なる景色や風情を感じさせます。

(左上)仙奕台からの展望、(右上)好文亭、(左下)好文亭の東広縁、(右下)楽寿楼からの眺望(写真撮影:看中国/常夏)

 「好文」とは、梅の異名です。晋の武帝の「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば咲かさなかった」という故事にもとづいて斉昭が名づけました。好文亭は、昭和20年(1945年)8月2日未明の水戸空襲で一度は全焼しましたが、昭和30年(1955年)から3年をかけて復元され、現在に至ります。明治時代の藩主の居所であり、大正天皇や昭和天皇が皇太子時代に宿泊されたこともあるそうです。

 好文亭には、美しい景色だけでなく、斉昭の数々のユニークなアイデアが残されています。その中で最も先進的だと言えるのは、斉昭自ら設計図を描き、1842年に設けられた、食事などを運搬するための昇降機です。この昇降機は「つるべ式②」という仕組みで、「日本初の荷物専用昇降機」と言われ、今のエレベーターの原型ともなりました。欧米で実用化されたのは1903年だが、日本では1842年に実用化していたということで、一説には「世界初の近代式エレベーター」とも言われているのです。斉昭はこの好文亭で、数多くの独創的な発想を形にして、後世に大きな影響を与えました。

 好文亭を離れ、鬱々とした大杉の森を潜り抜け、微かに聞こえてくる水の音を辿り歩くと、目の前に桁違いに高い杉の木が現れます。徳川家が水戸に入る遥か以前、鎌倉時代初期からこの地の栄枯盛衰を見て来た杉の巨木です。周辺で最も大きかった巨木は「太郎杉」と呼ばれ、その推定樹齢がなんと800年なのです。以前は太郎杉の周囲に多くの杉の巨木があり、大きい順に太郎杉から五郎杉まで名前がつけられていましたが、現在は太郎杉だけが残っています。

 その太郎杉の足元では「吐玉泉(とぎょくせん)」が静かな水の音を奏でています。斉昭は、高さ約3メートルの落差を利用して集水し噴出させ、景観を考慮して白色の井筒を据えた自水泉を設置しました。泉石は、常陸太田市の真弓山(まゆみやま)から運ばれてきた寒水石(かんすいせき)と言われる大理石です。現在の井筒は開園当初から数えて四代目で、昭和62年(1987年)12月に更新したものです。

 偕楽園一帯は豊富に水が湧き、ここ吐玉泉では、一日約100トンもの水が湧出しています。湧き出た水は、江戸時代末期、好文亭の茶室「何陋庵(かろうあん)」の茶の湯に使われ、眼病にも効くと伝えられています。

 太郎杉周辺と吐玉泉の水の音は、偕楽園の「陰」の空間の象徴として、多くの来園者の癒しの場として親しまれています。

 太郎杉に背を向け、吐玉泉のある方向を眺めると、チラッと見える竹林があります。「孟宗竹林」です。孟宗(もうそう)竹という国内最大の竹が1000本以上植えられています。ここの竹は、弓の材料とするために、斉昭が京都の竹を移植したものが始まりだそうです。右側の杉の大木群と対となり、年間を通じて緑に囲われていて、通る人の心を落ち着かせてくれます。

(左)吐玉泉とチラッと見える孟宗竹、(右)孟宗竹林(写真撮影:看中国/常夏)

 孟宗竹林を抜けると、「黒門」と呼ばれる茅葺きの門が見えてきます。松煙塗(黒色)であることから、黒門と呼ばれていますが、実はこの黒門こそが、偕楽園の正式な入り口であり、旧来の「表門」なのです。現在は、表門が駅や主要な駐車場から遠く離れているため、ここから入園する観光客は少なくなっています。しかし、「好文亭表門」と記されたこの門から入り、竹林、大杉森を経て好文亭、仙奕台、東西梅林に至ると、斉昭が演出した「陰と陽の世界」を丸ごと体感できるので、東門から入園した方は、表門で折り返して、東門で退園するのも一興かもしれません。

 庭園構造における「陰」と「陽」の演出や独自の発明ももちろん、陽の世界を演出する梅、陰の世界を演出する竹、そして随所に点在する松。園内で見られる様々な工夫は、一つひとつが、斉昭の深遠な思想が具体化された作品とも言えるのではないでしょうか。

 さらに、園内にある「偕楽園記」の石碑の裏側には、6か条の入園の心得が「禁條」として刻まれていることから、公共の利用のためのルールまで示され、近代の公園に近い性格をもつ庭園とも見られています。民と偕に楽しむ場所を作りたいという斉昭の思いを知り伺えますね。

 陰と陽が偕に、君主と民が偕に、そして人間と自然が偕に調和を楽しむ場所・偕楽園。その美しさと藩主徳川斉昭の心は、後世に永らく謳われていくでしょう。

註:
①中国語原文:古之人與民偕樂,故能樂也。(『孟子・梁惠王上』より)
②駆動方式が「つるべ式」のエレベーターは、人が乗るかごと、つり合うおもりがワイヤーロープによって「つるべ式」につながり、巻上モーターの回転速度を制御して、かごを昇降させる方式。

(翻訳編集・常夏)