東大寺法華堂の不空羂索観音立像(国宝) 脱活乾漆造(Ismoon (talk) 15:49, 10 February 2019 (UTC), CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

 漆による彫刻は古代中国から始まり、6世紀、仏教の伝来と共に日本に伝わりました。7世紀末から8世紀にかけて、日本では塑像と共に脱活乾漆像(だっかつかんしつぞう)が造られるようになり、奈良時代、その中でも特に天平期にその全盛期を迎えました。

 脱活乾漆像は、東大寺法華堂(三月堂)、興福寺、唐招提寺などに現存し、日本彫刻史上著名な作品が多く含まれています。これらは、心木に塑造で概形を造り、その上に麻布に漆を付けたものを貼り重ね、乾かせ、固まった後に、背面などの目立たない部分を切開して内部の塑土を除去するという手法で造られています。

一、古都奈良に現存する脱活乾漆像

 奈良當麻寺(たいまでら)金堂の四天王立像は、日本における脱活乾漆像の最古例とされています。しかし、各像ともに補修や後補部分が多く、当初の乾漆層を残す部分が少ないのが現状です。

 奈良興福寺の八部衆像と釈迦十大弟子(国宝)は脱活乾漆の彫刻としてよく知られています。光明皇后が発願し、遣唐使の道慈(どうじ)の指導の下で制作されたのではないかと言われています。その中でも、八部衆の阿修羅像はほぼ完全に残っており、少年のような姿は魅力的で特に有名です。

興福寺阿修羅像(奈良時代)、国宝、脱活乾漆造(パブリック・ドメイン)

 唐招提寺の「鑑真和上座像」(国宝)も脱活乾漆造によるものとして知られています。座像は高さが80㎝ほどで、鑑真和上の全てを細部に至るまでありのままに写したもので、日本の最古の肖像彫刻だと言われています。

唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上像」 脱活乾漆造(パブリック・ドメイン)

 奈良東大寺法華堂の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)(国宝)も奈良時代を代表する脱活乾漆像です。保存状態がよく、光背・像とも破損した部分は少なく、特に高い評価を受けています。不空羂索観音造立の経緯は諸説あるようですが、造立の基となる経典はいずれも天平7年(735年)に、唐から帰国した玄昉(げんぼう)がもたらしたものだそうです。

 他にも脱活乾漆像は、奈良東大寺の梵天・帝釈天立像、四天王立像、金剛力士・密迹力士立像、唐招提寺金堂の本尊盧舎那仏坐像などがあり、いずれも国宝に認定されています。

二、脱活乾漆技法の特徴

1)軽量

 脱乾漆像は「張子の虎」のように内部が空洞となっているため、像は軽く、簡単に持ち運ぶことができるため、歴史の荒波の中、脱乾漆像は戦乱の巻き添えになることもなく無事避難させることが出来ました。一方、銅製の重量のある彫刻は避難することができず多くが消失されました。

2)頑丈

 脱乾漆像は漆が硬化した後にさらに黒漆などを塗り、最後に金箔を押し彩色を施して仕上げることもありますが、非常に頑丈に仕上がります。天平時代に造られた多くの像が現在もそのままの姿であることは、乾漆の丈夫で長持ちという特徴ゆえに出来たことだと考えられます。

3)高価

 乾漆技法は仏像の繊細な表情や理想のプロポーションを表現することができますが、使われる漆が高価であり、尚且つ制作期間が長いため、官営造仏所でしかできませんでした。

 その後8世紀後半には、鑑真の渡来によって木彫りの技術が伝えられ、漆の量が少なくて済む木心乾漆技法が多く使われるようになりました。乾漆像は平安初期まで見られましたが、それ以降ほとんど造られなくなり、木彫像が主流となりました。

三、中国における脱活乾漆像

 「脱活乾漆造」という技術は中国から伝来し、中国では「夾紵(きょうちょ)」、日本では「像(ソク)」と呼ばれました。脱活乾漆と呼ばれるようになったのは明治時代以降だと言われています。

 中国では古くから仏像制作が積極的に行われていました。高度な漆文化を背景に、夾紵像は盛んに造られ、唐代に入ってからその頂点に達します。しかし、唐の後期、仏教の隆盛の中、武宗(唐朝の第18代皇帝)が仏教に対して厳しい弾圧を行い、所謂845年の「会昌の廃仏」がありました。当時、4600もの寺院が廃止され、26万以上の僧尼は還俗させられ、仏教に関係するものはほとんど破壊されました。

 海外に流出した遺品として、アメリカの美術館等に30例ほどがあることは知られていますが、中国国内では古代に造られた「脱活乾漆像」は殆ど残っていません。そういう意味で、古都奈良の「脱活乾漆像」群は世界で現存するとても貴重な文化遺産だと言えましょう。

(文・一心)