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「鈴を縛った者しか鈴を解くことはできない」:ある歴史の物語の教え

南京の清涼山にある清涼寺(金陵にある四十八個の美しい景色の一つ「清涼問佛」)(清・徐虎 パブリック・ドメイン)

 五代十国時代、南唐の金陵という場所(現在の南京)には清涼寺があり、「法灯」禅師がいました。法灯は他の僧と異なり、豪放で物事にこだわらない自由奔放な気性であったが、無精なところもあった。

 そんな法灯を煙たがる僧もいたが、法灯は「法眼禅師」という特別な資格を持つ人物の1人でもあり、僧たちは法灯を無下にするわけにもいかなかった。

 ある日のこと、清涼寺の一人の法眼禅師が僧たちにこう尋ねた。
「虎の首に縛られた鈴を解くことができる者はいるか?」

 僧たちは黙ってしまい、答えを出せなかった。ちょうどその時、法灯が通りかかったので、法眼禅師は彼に先ほどと同じ質問をした。すると、彼はこう答えた。
「虎の首に鈴を縛りつけるような人ならば、それを解くこともできるに違いない」

 法眼禅師は、「法灯はうまく答えた」と感心し、他の僧たちに「法灯をばかにしてはいけないぞ」と説いたのであった。

 事の始末をつけるのは、やはりその原因を作った人でなければならない。もし、誰かが虎の首に鈴をつけたのなら、その人にしかその鈴を取り外すことはできない。つまり、これは「問題を引き起こした人がその問題を解決すべきだ」というたとえ話であると言える。

 この話にはまだ続きがある。法眼禅師からの問いに答えた後、法灯は「あの質問の本当の意味は何だったのだろう」と思いを巡らせた。真に仏の道を歩む者は、自らの内面を見つめることで、自らが置かれた環境を正確に理解し、自らの努力によって現状を変えることができると言われている。この言葉通り、法灯は自身の欠点を修正する決心をする。

 以来、法灯は仏教の経典を読み漁り、これまでの行いを反省しつつ勤勉に学習を続けた。そしてついに、彼は仏教の熟練した修行者として成長した。

出典:明・瞿汝稷『指月録』

(翻訳・襄譲)

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