広東省潮州市東部にある広済橋は世界最初の可動橋で、趙州橋、洛陽橋、廬溝橋と並んで中国四大古橋の一つに数えられています。潮州市を流れる韓江に架かる広済橋は、その正面にある「広済門」が名前の由来とされています。八仙人の一人・韓湘子が書いた「洪水はここで止める」という石碑が橋の端に立っていた伝説があるため、「湘子橋」とも呼ばれています。また、広済橋は著名な橋梁専門家・茅以昇氏により世界最初の可動橋と評されています。

広済橋のひな形—康済橋

 広済橋の原型となったのは康済橋でした。康済橋は全長517.95mで、東・中・西の3段に分かれていました。西段は南宋幹道七年(1171年)から建設が始まり、86隻の大船を浮かせることで東西両岸を結び、太い紐で固定して浮き橋としました

 康済橋は完成した3年後、洪水により破壊されました。修復工事により浮き船は106隻まで増加し、非常に壮大な風景となりました。修復してなお予算に余りがあったため、西岸に「傑閣(楼閣の意)」を造りましたが、この「傑閣」は西岸における最初の橋脚となりました。この橋脚が作られたことにより、東西両岸から川の中心までの橋脚増築工程が展開されました。西岸では54年の歳月をかけて10本の橋脚を完成させ、東岸では16年かけて13本の橋脚を増設しました。

 歴史書によると、開慶元年(1259年)、太守林光世が新しい船二十四隻を作り、鉄の鎖七十丈を使って浮き船の両側を連結させました。ここにおいて広済橋の全体像が固定されました。

広済橋

 歴史書の記載によると、明宣徳十年(1435年)に橋が再びに洪水によって破壊されました。そこで修復可能な橋脚を修繕し、壊れている橋脚を造り直し、さらに五つの橋脚を増築しました。完成後、「西岸は十脚九穴、長さは四十九丈五尺;東岸は十三脚十三穴、長さは八十六丈。中空部は長さ十七丈、浮き船二十四の浮き橋」となり、「広済橋」に改名されました。

 完成後、橋に市場として126軒の「亭屋」が造られ、酒屋や茶屋が立ち並びました。人や馬車が頻繁に往来し、間もなく交通・貿易の中心となりました。橋脚に商店街として「広済橋二十四楼」が建築されたことにより、「広済橋」はまるで街道のようになりました。そのため「一里の橋に一里の市」という美称を得られました。

広済橋の特色

 広済橋の特色として、橋脚と浮き船の結合が挙げられます。東・西の部分は架け橋、中央部分は浮き橋で出来た広済橋は、毎日決められた時間に浮船を解きくことで筏や船を通すことができます。中央部分の幅は約百米で、水の流れが激しいため橋を架けることができず、小船を渡し船として使用しています。

広済橋中央部分の浮き橋

 橋の両端は花崗岩によって固定され、橋脚と橋梁も花崗石で補強されています。橋脚長さは11~22mで、幅は6~13mとなっています。橋の路面は大小二種類の石板で舗装されています。

 石橋、アーチ橋、浮き橋を一つに集めた特徴的な広済橋は中国橋梁歴史上まれに見る遺産だけではなく、世界初の可動橋として歴史的・芸術的価値をも兼ね備えているのです。

広済橋の空中写真

(翻訳・清水小桐)