古代中国の戦略思想の中で最も有名なのは孫子の兵法でもおなじみの、「戦わずにして勝利すること」だと言われている。唐王朝(618年〜907年)の将軍・郭子儀(かくしぎ、697年―781年)は、まさにこの才能を体得した人物であった。彼は戦場においてのみならず、朝廷における闘争にも争わずにして勝利した。

郭子儀の数十年間に及ぶ軍人生活には、回鶻(かいこつ)と吐蕃(とばん)との間の大規模な戦闘を含まれていた。郭子儀は長年の戦闘で蓄積した威信だけで敵の侵攻をしばしば撃退した。

763年、唐王朝が激しい安史の乱(あんしのらん、755年-763年)からやっと回復していた矢先に、吐蕃の軍隊が都の長安に迫った。郭子儀は吐蕃人から見える場所に何百もの火を灯し、軍隊がそこに陣取ったと思わせた。同時に、彼は長安で花火を打ち上げ、どらを鳴らした。吐蕃人はこの騒ぎに恐怖を感じ、唐軍に包囲されたと勘違いして逃げ出した。

二年後、反乱軍は回鶻と吐蕃の軍隊と共に再び長安に侵攻した。郭子儀の兵士が一万人しかいなかったが、敵は三十万人だった。

70歳近い郭子儀は、回鶻軍の将軍と話し合うことが最善の解決策だと判断した。彼の部下はそれが非常に危険だと思ったが、郭子儀は決行した。彼の息子は、「あなたが行くことはトラに餌を与えているのと同じだろう」と訴えた。郭子儀は「我が国は非常に危険だ。私が回鶻人を納得させることができれば、国は安泰を保てる」と答えた。彼は息子の手を払いのけて、回鶻の陣地めがけて馬を走らせた。

回鶻軍の将軍は郭子儀を警戒し、兵士に戦闘の準備を続けさせるよう命じた。 郭子儀はこの状態を見て、自分の鎧と武器を捨てた。 郭子儀はこの回鶻軍をよく知っていた。彼はこの軍隊を引率し、他の反乱軍と戦ったことがあったのだ。郭子儀は回鶻人に非常に優しく、彼らの父親のように接した。回鶻兵士達は彼の顔を見て、すぐひざまずいた。

回鶻の将軍は郭子儀と会い、反乱軍に騙されたことに気づいた。回鶻軍はすぐに郭子儀の軍隊に加入した。吐蕃軍がこの情報を聞と夜逃げした。

武勲に秀でた郭子儀を同僚が嫉妬していた。宦官であった魚朝恩は最も危険な人物でした。魚朝恩は大きな戦いで敗北し、郭子儀に責任を擦り付けた。皇帝は魚朝恩の言い分を信じ、郭子儀の官位を剥奪した。しかし、郭子儀は恨みを抱かず、軍に戻る機会を待っていた。次の皇帝が位に就いた時、彼は軍に戻った。

郭子儀の寛大さが明らかになった出来事には魚朝恩が彼の父親の墓を荒らしたことがあった。家族の墓を荒らすことは古代中国において最も無礼で侮辱的な行為の一つであり、郭子儀は傲慢な魚朝恩が有罪であることを容易に証明することができた。しかし、それは唐王朝の中心に大きな亀裂をもたらし、王朝を傷つける恐れがあった。そこで郭子儀は皇帝に対し、「戦争中に、私が統率した兵士たちは他人の墓を不注意に扱いたことが多い。私の父親の墓が荒らされたことは、そのことに対する神様の懲罰ではないかと思う」と言った。これに対し皇帝は大いに感心し、重臣の間の反目を未然に防ぐこととなった。

「旧唐書(くとうじょ)」でも郭子儀に対して高い評価を下し、「権は天下を傾けるも朝廷は忌まず。功は一代を蓋いたるも主は疑わず。侈(贅沢)は人欲を窮(きわ)めたるも君子之を罪とせず」と記している。すなわち郭子儀の権力は天下を覆うほどだったにもかかわらず朝廷から警戒されず、比類のない功績を遺したにもかかわらず皇帝から疑われなかった。そして贅沢を尽くしても誰にも責められることはなかったということだ。

*「旧唐書」は中国の歴史をまとめた「二十四史」の一つであり、唐王朝(618年―907年)について書かれている。中国の五代十国時代に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された。

(翻訳・黎宜明)

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