明人十八学士図(國立故宮博物院・台北 / パブリック・ドメイン)

 寛大で辛抱強く、度量の大きい事は伝統的な美徳です。人が世渡りをする中で、我慢することができれば、多くの必要のないトラブルから避けられ、人と優しく付き合うことができることは、とても高く評価されるべきことです。中国の伝統文化に感化された古代の人々は寛大で忍耐強く、このような品格を我々現代人も学ばなければなりません。

(一)

「刃物で傷つけられることは我慢できても、誹謗中傷されることは我慢できない」とよく言われます。それでは、古代の人々はどのように誹謗中傷に対応していたのでしょうか?

終始弁解をしない

 一、北宋の時、蔡襄(さい じょう:1012年~1067年 中国宋代の書家・文人)が会霊東園で酒を飲んでいた時、その席である客が矢を射ち、誤って観光客を負傷させました。しかし、その客は蔡襄が矢を射って、観光客を負傷させたと嘘を言いました。すると、京城では噂がたちまち広まりました。それを聞いた皇帝は蔡襄に真偽を問うと、蔡襄はただただ叩頭して許しを請い、終始自分のための弁解はせず、宮中から帰って来ても、誰にもこの真相を明かしませんでした。

 二、東晋(とうしん:317~420年)の頃、高防と言う人がいました。彼はかつて澶州防御史・張従恩の判官でした。当時、段洪進と言う軍人がいて、官府の木材を盗んで自分のための家具を作りました。それを聞いた張従恩はとても怒り、段洪進を処刑しようと考えました。段洪進は自らを守るため、「すべては高防が私にそうさせたのです」と嘘を言いました。張従恩は高防に本当かどうかを確かめると、高防はそれを認めました。そして、段洪進は処刑されることから免れました。

 そこで、張従恩は銭1万貫(およそ9億円)と馬1匹を高防に送り、彼を追い出しました。高防はとても平然として立ち去り、終始自分の無実を主張しませんでした。しかし、その後、張従恩は自分の決断に後悔し、部下に高防を追いかけさせ、彼を連れ戻させました。1年後、張従恩は側近から「高防が罪を認めたのは、人の命を救うためだった」と聞かされました。真実を知った張従恩はとても驚き、高防の事をより一層尊敬するようになりました。

(つづく)

(明慧ネットより転載)