秦嶺山脈の徐家溝貯水池(Pixabay License)

 秦嶺山脈は、中国の中央に位置し、中国を南北に分ける地理的な境界線です。ここを水源とする河川が、肥沃な大地を養い華麗なる中国文明を育んできたことから、中国文明の龍脈として讃えられています。

絶好のロケーション

 中国には高い山がたくさんあります。秦嶺山脈は、面積や高さで数ある他の山脈と比べて抜きん出ているわけではありませんが、比類なき特殊な地位に存在しています。まさしく、そこは「絶好のロケーション」なのです。

 秦嶺山脈は、中国で唯一東西方向に伸びる山脈です。本体が陝西省南部にある秦嶺山脈は、西の甘粛から始まり、迭(てつ)山と崑崙(こんろん)山脈に囲まれ、東に向かい、天水の南にある麦積山を経て陝西に入ります。陝西省と河南省の境界で3つの枝に分かれ、北の枝は崤山(こうざん)、真ん中の枝は熊耳山(ゆうにさん)、南の枝は伏牛山(ふくぎゅうさん)で、全長は1,600キロメートル以上あります。

秦嶺山脈の位置(ネット写真)

 この中国の心臓のような巨大な山脈は、単に中国の中心に位置するだけでなく、多くの意味で、中国を南と北に二分しています。

 冬になると秦嶺山脈の北にある関中地域は、身を刺すような冷たい風が吹き荒れる氷と雪の極寒世界に変わります。厳しい冬を生き抜くために、人々は暖かいオンドルと炉の火に頼らなければなりません。しかし秦嶺山脈の南にある漢中盆地は、秦嶺山脈が北側の寒気を遮るため、冬でもまだ緑の山が見られます。そして夏になると、秦嶺山脈が湿った海風が北西部に入るのを防ぎ、北部の乾燥を保ちます。

 その結果、秦嶺山脈の北と南では、気候、河川、植生、土壌、農業などに明らかの差異が生まれました。ここから、気候の差異を表す「南澇北旱(南は洪水、北は干ばつ)」、交通手段の差異を表す「南船北馬」、食生活の差異を表す「南は米、北は麺」など、中国の南北の差異を表現する数多くの言葉が生まれてきました。

秦嶺山脈の一部(陈小猫, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

13の王朝の都

 秦嶺山脈は、長江(揚子江)と黄河の分水界であるだけでなく、中国の南北の地理的の境界線であり、その足元では華麗な古代中国文明が誕生しました。

 高さは3,000メートルを超える秦嶺山脈は、雨水が発生しやすく、秦嶺山脈の北麓に渭河平原(いがへいげん)、今の宝鶏や西安から潼関までの「関中地区」を肥沃で豊かな土地にし、西周や唐など10を超える王朝がこの地域に都を築きました。秦嶺山脈の足元には、世界的に有名な都城「長安城」が築かれ、当時の中国の首都として800年以上の歴史を誇っていました。

関中平原の小麦畑(1965年)(パブリック・ドメイン)

 大禹が九州を設定する時、関中平原一帯は「雍州(ようしゅう)」と呼ばれるようになりました。西周王朝はここで生まれ繁栄しました。西周王朝は、秦嶺山脈のふもとにある鎬京(こうけい)に首都を建設しました。周人の故郷であるだけでなく、肥沃な関中平原があり、周囲の高く険しい山々が外敵の侵入を効果的に遮断できるからです。その後、秦国もここで強く繁栄し、同じく秦嶺山脈の足元にある咸陽を首都にしました。始皇帝は亡くなった後、秦嶺山脈の驪山に埋葬され、秦嶺の抱擁に寄り添いました。

 唐の時代になると、秦嶺山脈のふもとに築かれた長安は最盛期を迎えました。この時期の長安は、人口が100万人を超え、人類の都市建設史に新たな記録を打ち立てました。また全盛期には、常に東アジアの中心として、国外の使節、僧侶、商人を多く引き付けていました。かの有名なシルクロードも、唐王朝期には長安を起点としていました。

中国文明の龍脈

 「地霊人傑(ちれいじんけつ)」と言われる秦嶺山脈。多くの有名人がここで生まれ、多くの有名人が秦嶺山脈を題材にした詩と文を書きおろしました。秦嶺山脈の主要な山である「華山」「太白山」「終南山(しゅうなんざん)」などは、数え切れないほどの素晴らしい文化や芸術を生み出しました。現在も陝西省西安市には、長安だった時の唐王朝期の宮殿の遺跡、陵墓、仏塔、碑文、壁画、彫刻及び日用品などの文化遺産が、今も数多く残っています。

 2009年8月23日、秦嶺山脈中央付近の「秦嶺終南山」が、ユネスコによって「ユネスコ世界ジオパーク」に指定されました。

 秦嶺山脈と秦嶺文化に情熱を傾けてきた学者たちは、このように語りました。

 「偉大なる中国の文明を育んだ各地の文化は、中国の祖であり、中華民族の父である秦嶺山脈と深く繋がっています。すなわち秦嶺山脈は、中国の文化の誕生の地であり、中国文化の根源の所在なのです。」

(文・美慧/翻訳・宴楽)