斉白石(さい・はくせき、1864 – 1957)は、中国湖南省長沙府湘潭県(今の湖南省湘潭市)出身で、20世紀の現代中国画の世界では最も有名な巨匠で、世界的な文化人でもあります。元の名は純芝、字は渭青で、後に名を璜に改名し、字も瀕生に変えました。「白石」とは斉白石の数多くの号の一つであり、他には「白石山翁」や「老萍」「借山吟館主者」「寄萍堂上老人」「三百石印富翁」などの号があります。

 生涯を中国画の研究に捧げた斉白石は、晩年においても新しい描き方を追求していました。彼は、花びらを鮮やかな洋紅色(マゼンタ色)で染め、葉っぱを異なる濃さの墨で描き、花びらと葉っぱが鮮明な対比を成す「紅花墨葉」という技法を編み出しました。また、「大写意(だいしゃい)」という唯一無二の作風を独力で切り開き、現代中国画史上最も高い影響力を持つ芸術家になりました。絵画だけではなく、詩(作詩)・書(書道)・印(篆刻)においても、彼の作品は独創的で、この4つの領域に精通する彼の作品は、斉白石の「四絶(四つの絶品)」と称されています。斉白石は、3万枚を超える画作、3千篇を超える詩作など、非常に多くの作品をこの世に残しました。

 そんな斉白石ですが、青年期には、貧しくて絵を描く事さえ難しい生活を送っていました。しかし、その後、来日し画展を開いたおかげで一気に有名になり、それまでの貧しい生活から抜け出しました。日本で有名になったのは、作品の芸術価値だけではなく、斉白石自身の人格も認められたからでした。生涯、芸術に身を投じた斉白石の持つ高潔な品格は、彼の作品「四絶」に対して「五絶」と称されるほどでした。

 時代を超えて、人々の心を動かす巨大なる影響力を持つ芸術の巨匠・斉白石。しかし、彼の没後に起こった「文化大革命(以下、文革)」の政治的必要性が原因で批判されるようになりました。

 1964年10月25日、文革を主導した江青(こう・せい)は、中央美術学院の3名の教員との対談で、「斉白石の(絵画作品にある)ネギ一束、ニンニク二玉、何尾かのエビが、そんなに良いものなのか?おかしいね、なぜこんなに人気がでたの?斉白石は土改(土地改革)に反対しているけど。(地主として)鍵束を身に着けている銭ゲバなんだろうよ!」と話しました。

 1965年5月12日、中央美術学院の聞立鵬・王式廓・李化吉の3名の教員は、学院のモデルの採用問題について江青に手紙を書きました。その手紙に、毛沢東は「斉白石、陳半丁(ちん・はんちょう)のような輩は、花木の作品から見ると、清代末期の画家より下だ。私が見た中国の画家の中で、徐悲鴻(じょ・ひこう)一人しか人体デッサンを残していない。その他の斉白石、陳半丁などの画家の中には、人物画を描けるのは誰一人いないな」とコメントを書き残しました。

 1966年11月、江青は美術関係者との対話で、「斉白石の絵、あれに何年も目をつけているけど、あれは何の絵なんだよ!なんでそんなに大きな画集を作らないといけないんだよ!斉白石を『当代の芸術大師』と讃えたのは誰?いったい誰?斉白石、何様なの!?」と話しました。

 江青と毛沢東の言葉を根拠に、中国美術界は「紅衛兵(こうえいへい)」たちと共に、斉白石を非難し始めました。斉白石の作品は画廊から消され、精巧にコピーされた数多くの斉白石の作品の複製も公共の場から姿を消しました。そして彼の作品の中の、文化や伝統、気韻と画境すら悪評されるようになりました。

 文革の初期、紅衛兵たちにより、北京の西郊にある斉白石の墓と、墓前にある斉白石直筆の篆書「湘潭斉白石墓」と隣にある「継室宝珠之墓①」の碑文が書かれた2つの碑石の全てが破壊されました。

 斉白石の人格を貶(けな)し、政治的な批判をするだけでなく、斉白石の作品にある伝統的な中国画の筆遣いと気韻も「有閑階級の飾り物」だと悪評されました。例えば、彼の作品『荷郷清暑図』は「朽ち果てた寄生生活の黒い(悪い)画」と批判され「社会主義帝国のソビエト連邦の人に好まれ、多くの注文があった」と事実無根の濡れ衣を着せられました。また『大寿図』という作品は「封建迷信を宣伝する『四旧②』・毒草」「『三年自然災害③』という困難なご時世に、よくもこんな奢侈なる誕生祝の品を出せた」と出鱈目を言われました。さらに、斉白石批判に特化した出版物まで出版されました。中でも最も集中的で全面的に斉白石を批判したのは、「上海美術界大批判資料編集部」が出版した『打倒斉白石』という出版物でした。

 文革の後期の1973年まで、中華圏の代表的な出版社の「中華書局」の海外弁事処や「商務印書館」の香港弁事処の出版物を含む、全ての出版物は重版であっても検閲され、内容に「斉白石」の氏名があれば強制的に削除・変更されました。例えば、辞書の一文に「斉白石が描いた小さなニワトリがとても生き生きとしている」とある場合、「斉白石」の氏名を消し、「彼」という汎称に変更し、「彼が描いた小さなニワトリがとても生き生きとしている」と変えなければなりませんでした。「斉白石」という氏名すら禁句でした。

 没後も行われる斉白石に対する批判。これは中共が政権発足以来、人材の面において惜しみなく中国の伝統文化を破壊した一例にすぎません。中国の伝統文化に対する破壊は、何世代もの中国人の心から根付いた伝統文化を根絶やしにしました。その直接的な結果が、今日の中国本土の人々の甚だしい道徳水準の低下、乱れた現象の横行、様々な社会問題が噴出など、いたる所に潜む危機として現れているのではないでしょうか。

註:
①斉白石の二人目の妻・胡宝珠(1902 – 1944)の墓。
②「四旧(しきゅう)」とは、旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣の総称。「文化大革命」の批判対象。
③「三年自然災害」とは、1959年から1961年までの中華人民共和国の歴史において広範にわたり発生した大規模な飢饉に対する、1981年以前に中華人民共和国政府の呼称。

(文・戴東尼/翻訳・常夏)